座標: 北緯32度46分25.4秒 東経129度51分47.6秒 / 北緯32.773722度 東経129.863222度 / 32.773722; 129.863222[注釈 1]

長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)は[2]第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)に、連合国アメリカ合衆国枢軸国日本長崎に対して原子爆弾ファットマン[注釈 2]」(以下原爆と記す)を投下し[注釈 3]、午前11時02分に炸裂[3]した出来事である[4]

戦略爆撃機B-29ボックスカー」により投下された原爆は[5]広島原爆投下[6]リトルボーイ)に続き[7]、人類史上において実戦に使用された2回目の核兵器である[8]

長崎市への原爆投下は、日本本土の戦いにおける日本本土空襲[9]、一局面であった[10][11][注釈 4]

爆心地は長崎市松山町[15]、現在は平和公園となった。当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡[注釈 5]、建物は約36%が全焼または全半壊した[17][注釈 6]。同年9月中旬以降[18]、進駐してきた連合軍が被災後の長崎を撮影し、当時の惨状を記録した[19]

長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である場合が多い。

原爆投下時

1945年(昭和20年)8月6日広島原爆投下作戦において[20]、観測機を務めたB-29グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が小倉市(現・北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。

その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた[注釈 7]

出撃機は合計6機であった[注釈 8]

スウィーニーの搭乗機は通常は「グレート・アーティスト」であったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機は「ボックスカー」となった[注釈 9]

「ボックスカー」には、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイコブ・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した[注釈 10]

8月9日早朝には同時に日本飛行機の山形の飛行場(現在の山形市あけぼの付近)空爆が行われた。同所は練習用・特別攻撃隊用の複葉機である九三式中間練習機(布製の翼でオレンジ色の機体であったため"赤トンボ"と呼ばれた)を月40機ほど生産し神町海軍航空隊などに提供していたが滑走路も格納庫も爆撃を受け出撃不能となった[22][23]

先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、「ラッギン・ドラゴン」からは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。この2機に関しては9日朝に国東半島付近を飛行中に目撃され、西部軍管区司令部(第16方面軍司令部兼任)は午前7時50分に空襲警報を発令した[24]。午前8時30分、空襲警報は解除された[25]

前回の広島市への原爆投下では、3機の合流地点は、硫黄島上空であった。しかし、今回は、台風が硫黄島付近で勢力を増しつつあり、そのため合流地点を屋久島へ変更していた[26]。3機は屋久島まで個々に飛行を行った。

原爆投下のための飛行ルートを示す日本とマリアナ諸島の地図。 テニアン基地から硫黄島を経て広島へ直行。投下後、同じルートを戻る。 もう1つは、テニアン基地から合流地点の屋久島へ飛行。そこから、第1目標の小倉へ。目視投下できず第2目標の長崎へ飛行。そして原爆投下。燃料不足により沖縄へ。燃料補給後テニアンに戻る。
1945年8月6日と9日の原爆投下の飛行ルート

午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機の「グレート・アーティスト」とは会合できた[注釈 11]が、島の西側を旋回していた写真撮影機の「ビッグ・スティンク」とは会合できなかった[24]。それでも高度12,000メートルの地点で「エノラ・ゲイ」、「ラッギン・ドラゴン」からの気象報告を受信したスウィーニーは2機編隊で作戦を続行することにした[24][注釈 12]。この気象報告は埼玉県大和田通信所で傍受されており、直ちに西部軍管区に転送された[24]

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉がノルデン爆撃照準器から目標を確認し、それを受けてスウィーニーが投下用意を令して爆弾倉を開け、スウィーニー以下全搭乗員が保護メガネを着用して爆発に備えた[28]。ところが、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために照準器の視野が遮られ、目視による投下目標確認に失敗する[28]。この時視界を妨げていたのは、前日(8月8日)にアメリカ軍が敢行した八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7キロメートル)の[29]、残煙と靄だといわれる[注釈 13]。また、この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた日本製鐵八幡製鉄所の従業員が、9日朝、敵機が少数機編隊で北上している報を聞き、上司の命令で煙幕装置に点火。新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言しており、これが影響した可能性もある[30][注釈 14]。「ボックスカー」は旋回して爆撃航程を少し短縮して爆撃態勢を繰り返すものの煙で依然として目標がつかめなかったばかりか、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、「ボックスカー」の周囲には高射砲からの弾着が取り巻いて機体が爆風で揺さぶられるようになった[28]

日本軍において、九州の防空を担っていたのは第6航空軍であった[31]。さらに、大和田通信所からの情報を転送された各基地のうち、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認された[28][注釈 15]。「ボックスカー」は東側に転じて3度目となる爆撃航程を行うがこれも目標を確認することが出来ず失敗[32]。この間およそ45分間が経過した。この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化して目視爆撃が難しくなり、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更すべく午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した[33][注釈 16]

長崎上空

3回原爆投下を試みたが、果たせなかったスウィーニーは小倉から攻撃開始地点の姫島へ戻ろうとした。コックピットの他の隊員から第2目標の長崎行きを勧められる。突然、スウィーニーは右旋回して長崎の方向に向かった[34]。このとき、右側後方を飛行していたボック大尉操縦の「グレート・アーティスト」と危うく空中衝突しそうになる[35]。スウィーニーは航法士にボックの位置を確認するため振り向いたとき「ボックはどこだ?」と聞いたが、この際にインターフォンと間違えて通信機器に触れて無線封止の命を破る形となり、「ボックはどこだ?」という音声通信はジェームズ・I・ホプキンス・ジュニア英語版少佐が操縦する「ビッグ・スティンク」に伝わってしまった[32]。ボックは左側後方を無事に飛行していた。直後、「チャック! どこにいる?」というホプキンス少佐からの音声通信が返ってきたが、それには答えることなく長崎へ向かった[36]。「ビッグ・スティンク」は、いまだ屋久島上空で旋回していた[32]。長崎への天候観測機「ラッギン・ドラゴン」は「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」とすでに報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。「ボックスカー」は小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、「ボックスカー」が長崎市上空に接近した際には、高度1,800メートルから2,400メートルの間が、80パーセントから90パーセントの積雲で覆われていた[37]

補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した[注釈 17]。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。

[要出典][注釈 19]

スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、午前10時58分、高度9,000メートルから「ファットマン」を手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3キロメートルそれた(目標地帯からは500 - 600メートル北とする説もある[39])松山町171番地の別荘テニスコート上空503メートル±10メートル[注釈 20]で炸裂した[注釈 21]

「ボックスカー」は爆弾を投下直後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の「グレート・アーティスト」から爆発の圧力、気温[要出典]などを計測する3個のラジオゾンデ落下傘をつけて投下された[注釈 22]。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村上川内(爆心地から11.6キロメートル)[40][41]、田結村補伽(同12.5キロメートル)[42][43]、江の浦村嵩(同13.3キロメートル)[44]に落下した[45][注釈 23][注釈 24]

「ボックスカー」と「グレート・アーティスト」はしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。

長崎を090158Zに有視界で爆撃した。戦闘機の迎撃も、対空砲火もなし。結果は「技術的には成功」といえるが、他の要素のため、次の行動に移る前に、会議が必要である。外見上の効果は広島と同じ。投下後の機内の故障により、沖縄に向かう必要あり。燃料は沖縄までしかない。長崎市編『ナガサキは語りつぐ』岩波書店 1991年 91頁)[注釈 25]
香焼島から撮影された長崎原爆のキノコ雲(松田弘道撮影)

この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っている[47][注釈 26]

長崎のキノコ雲については、爆心地から約10キロメートル離れた香焼町で炸裂から約15分後に住民が撮影した写真や、大村市の大村海軍病院から撮影された写真[48]が残されている他、遠くの県からも見えたとの証言もある。約100キロメートル離れた熊本県熊本市でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言がある[49]。また遠く200キロメートル離れ、九州山地の東側に位置する大分県中津市でも「あの日長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言もある。