続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)は、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応する。縄文時代から引き続くものとして1936年に山内清男によって名づけられて『ミネルヴァ』誌で発表されたのが初出で[1][注 1]、実際に縄文文化から連続する要素は多い[注 2]。 南部に恵山文化、中央部に江別文化、その終末期(5 - 6世紀、古墳時代中期から末期)の北大文化など、内部には地域と時代により異なる文化が含まれる。

記紀に登場する蝦夷(エミシ)に比定されている。

概要

本州の多くの住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が、本州大部分の弥生古墳文化に並行する続縄文文化である。このときまで本州のほぼ全域と北海道周辺の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。

続縄文時代には、北海道北部が大陸樺太方面から、北海道南西部が本州方面からの文化と産物の流入の窓口になっていた。北方産とみられる琥珀製の玉類が北海道から東北地方北部に分布し[3]佐渡島産とみられる碧玉製の管玉石狩川河口付近までみられる。逆に続縄文文化が北海道の外に拡大する動きもあり、樺太南部や東北地方北部、千島列島に広がっていた。このうち宗谷海峡北岸の樺太南部に拡大した続縄文文化はアニワ文化(亜庭文化)と呼ばれ[4]アムール川河口部の古金属器文化の影響を受けた在地文化(ナビリ文化ロシア語版)と接触・融合し鈴谷文化英語版へと発展した[5]。また東北地方では在来の弥生文化に取って代わる形で南下した。

また前期には独自性の高い土器文化が北海道各地に併存していた(道南の恵山文化、道東の宇津内文化下田ノ沢文化など)[6]が、後期には後述するオホーツク文化の版図を除いた地域が道央の江別文化を起源とする後北式土器(後期北海道薄手縄文土器)に統一されていき[7]、最終的に擦文土器文化へと移行した。

この時代の後期にあたる5世紀古墳時代中期)から、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけてオホーツク文化が定着した。これは続縄文文化とは異質のものである。

記紀には続縄文文化末期の人々とおぼしき集団(エミシ)が登場し、また本州における続縄文文化の遺跡の南限は記紀に記されたエミシの分布と、更にはアイヌ語地名の南限とも重なることから三者にはそれぞれ関係があるとされている(蝦夷を参照)。 日本書紀の記述ではエミシは穀物の栽培を行わず、狩猟中心の生活を行っているとされるがこれは続縄文文化の特徴と一致している。 北海道の続縄文文化が後に擦文文化へと移行したのに対して東北北部の続縄文文化は擦文文化へと移行せず、北海道のそれとは異なった道筋を辿り最終的に日本化した(日本の古代東北経営)。

脚注

注釈

  1. なおこの発表により、縄文文化の終期を鎌倉時代初頭とする喜田貞吉との間で縄文時代の終期について論戦になった。詳細はミネルヴァ論争を参照
  2. この呼称は「稲作中心史観」の考え方、つまり、気候的条件からか水稲耕作を受容・摂取できずに、また、縄文文化から完全に抜け出せなかった状態を表している[2]

出典

  1. 『続縄文・オホーツク文化』 2003、p6
  2. 関口明「文化は北から南から」23ページ(田端宏桑原真人船津功関口明『北海道の歴史』山川出版社 2003年3月)
  3. 『続縄文・オホーツク文化』 2003、p21
  4. 『続縄文・オホーツク文化』 2003、p59
  5. 文化遺産オンライン 鈴谷式土器
  6. 『続縄文・オホーツク文化』 2003、p10
  7. 『続縄文・オホーツク文化』 2003、p66

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
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弥生時代(東北北部)
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紀元前3世紀 - 紀元後7世紀
次代
擦文時代
蝦夷