神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)は、漢字伝来以前の日本に存在したと主張されてきた、固有の文字のことである[1]国語学的に見て完全に否定されている[2]

通説において、日本には漢字以前に書記体系は存在せず、日本独自の文字である仮名文字が出現するのは9世紀から10世紀のことである。「上古の日本に何らかの文字体系があった」とする説は、すでに鎌倉期から卜部兼方などが提唱していたが、神代文字に関する議論が特に盛んになったのは近世のことである。この時代、多くの神代文字が「発見」され、平田篤胤ら神道家によって盛んにその実在が主張されるようになったが、こうした文字の存在を疑う声は、当時からすでに大きかった。

近代に入ると、神道系新宗教によって、盛んに神代文字により書かれた古史古伝の存在が喧伝され、こうした文書は政官界にすら強い影響を与えることがあった。また、国学者のあいだでも神代文字を信じる者がいた。これゆえ、当時の国語学者はその存在を黙殺することができず、これを繰り返し否定する必要があった。山田孝雄による神代文字否定論をもって、神代文字の真偽が学術的に鑑みられることはなくなった。山田以来、神代文字の存否を論じるような研究は途絶えたが、神代文字という概念は近世・近代の思想潮流を大いに反映するものであり、思想史の観点から研究が続けられている[3]

背景

漢字の伝来と仮名の発生

稲荷山古墳出土鉄剣
日本における最初期の漢字の使用例として知られる。

日本列島)に漢字を記した事物が伝来したのはおよそ1世紀のことであると考えられており、漢委奴国王印や、新代銅銭である貨泉などが出土している[4]。日本列島に文字文化が浸透したのがいつであるかについては不明瞭であるが[注 1]5世紀には稲荷山古墳出土鉄剣江田船山古墳出土鉄刀隅田八幡神社人物画像鏡などにみられるよう、日本語の地名・人名が漢字を用いて記されるようになる[4]6世紀から7世紀にかけては中国大陸の行政機構が取り入れられるようになり、官人を中心に漢字の識字層が増えていった[4][6]。とはいえ、太安万侶和銅5年(712年)編纂の『古事記』序文において、「已に訓に因りて述ぶれば、詞は心にいたらず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し」と嘆くよう、日本語に用いる書記体系として、漢字は扱いやすいものではなかった[7][8]

そこで、これを補うための表音文字であるところの仮名が成立していった[7]片仮名の起源となったのは漢文訓読にあたって用いられた省画された漢字であり[9]、日本においては伝神護景雲2年(767年)書写の『大方広仏華厳経巻第四十一』などに角筆による書き込みが確認されている[10][注 2]。また、漢字の草体をさらに崩す形で成立した平仮名については、藤原良相邸跡(9世紀)から出土した墨書土器などに初期の例を確認することができるほか、貞観9年(867年)の『讃岐国司解有年申文』などにも用いられている[11]。こうした仮名文字が、漢字とは異なる文字体系として認識されはじめたのは9世紀末から10世紀前半のことであると考えられている。たとえば寛平9年(897年)の宇多天皇宸翰である『周易抄』では、訓注用仮名として万葉仮名の草体に基づくもの、傍訓用仮名として省画体本位の片仮名が使い分けられている[12]。10世紀には万葉仮名は使われなくなり[9]、平仮名のみで書かれた文献、片仮名のみで書かれた文献も多く現れるようになった[12]

史書によれば、上古の日本において文字は用いられていなかった。大同2年(807年)に斎部広成が著した『古語拾遺』には、「けだし聞く、上古の世未だ文字有らず、貴賎老少、口々に相伝え、前言往行は存して忘れず。書契以来、古を談ずるを好まず」とある[13]。『古事記』によれば、応神天皇15年に百済王の遣いとして遣わされた王仁(和邇吉師)が、『論語』十巻と『千字文』一巻を付して貢進したとされるが、『千字文』の成立はそれより時代の下る梁代周興嗣によっておこなわれたものであり、史実性は詳らかではない[14]。とはいえ、伝統的には「応神期をもって日本に文字が伝来した」とする見解が多く、大江匡房筥埼宮記』、一条兼良日本紀纂疏』などが同説をとっている[15]

五十音思想・言霊思想

神代文字論に強い影響を与えた思潮として、内村和至が「五十音思想」と名づけた、五十音図に神聖性をもとめる考えがある。馬渕和夫の論じるところによれば、五十音図は悉曇学と漢字音韻学における反切を組み合わせるかたちで平安期に生まれたものであり、本来は外国語の音声を仮名の範疇で処理するための道具として用いられたものである。これが日本語の音韻をあらわすものであると認識されはじめたのは江戸中期のことであり、それ以前においてはむしろ音韻一般を総覧した図であるとみなされていた。こうした背景から、五十音は密教的コスモロジーのもとに理解された[16][注 3]

国学の三哲」と位置づけられる本居宣長(左)、契沖(中)、賀茂真淵(右)

契沖元禄6年(1693年)に著した『和字正濫鈔』には、「和邦は、曜霊統を垂るるの秘区、天孫駕を降すの上域なり。僻けて東垂にせまると雖も、声韻最も寥亮詳雅りょうりょうしょうがにして、能く華梵に通ず[注 4]」とある。真言宗の僧侶である契沖の理論は悉曇学ひいては密教に付会する部分が多かったが、日本語の音韻・文法体系が明らかになるにつれて、こうした思想は徐々に日本語の体系性を神国としての日本と紐づけるようなものに変化していった[16]

山東功によれば、五十音を絶対視し、そこに神聖性を見出すような考えは、賀茂真淵によるところが大きく、本居宣長にも受け継がれるものである[18]。鎌田東二のまとめるところによれば、真淵は明和6年(1769年)ごろの『国意考』において「五十の声は天地の声にて侍れば、其の内にはらまるるものおのづからのことにして侍り[注 5]」と述べたうえで、日本語の「横の音」について「ことばの国の天地の神祖の教え給いしことにて、他国にはあらぬ言のためしことなることを知べし」と称賛する。真淵はこのような理由から日本は「言霊の幸わう国」であるとする。本居宣長天明5年(1785年)の『漢字三音考』にて「皇国の古言は五十の音を出ず。是天地の純粋正雅の音のみを用いて。溷雑不正の音をまじえざるが故なり」と論じる[20]

平井昌夫は、「わが国に固有文字があってほしかったとは、『言霊の幸わう国』との自負心をもっているわれわれ国民の誰しも望んでいるに相違いない」と論じる[21]。宣長は『古語拾遺』の先述のくだりを引きながら、上古の日本が「口承で事足りた」時代であったことを強調する。山下久夫が論じるように、これ自体も「漢字文明による『聖人の道』が入ってくるまでは我が国は野蛮な国だった」とする太宰春台ら儒者の主張を転倒させたものであるが[22]、岩根卓史によれば、神代文字の実在論者であった平田篤胤の場合には、宣長が棄却した「《コトバ》における〈音声〉と〈意味〉との関係」が再考される。篤胤が「古伝」として特に重視したのは祝詞であるが、岩根いわく、篤胤は、祝詞が真正たる所以はそれが漢字以前の《書記》性、すなわち〈書体〉を残しているがゆえであると考えた。篤胤は真の伝のための正当な書記体系が上古にあってしかるべきであると考え、それが神代文字につながったのだという[23]

山口志道『水穂伝』より「形仮名五十音図」。

「五十音思想」の極端な形は、国学者にして言霊論者の山口志道の著作にみることができる[16]。志道は天保5年(1834年)の『水穂伝』で、「形仮名」は「神代の御書」であるとして、その起源は自らが伝授された荷田春満の「稲荷古伝」にみえる十二の図形にあるという。いわく、天地初発のときにあらわれた太初のこりである父なる「火」と母なる「水」が結合することで第二の凝である「形」、「息」、「声」が生まれ、このうち声の体系として自然に生まれるのがカタカナである[24]。また、志道と同時期の人物である中村孝道は50音ではなく75音こそが「天地自然の理」にのっとったものであると論じた[25]鎌田東二いわく、こうした日本語の音韻構造を形而上学的に解釈し、神授されたものであると称える思想は、近世国学者の言語意識に通底するものであった[20]。彼らの大半が神代文字の存在を支持しなかったとはいえ、内村は「一般音韻としての五十音が存在する。その体系は日本語に備わっている。かかるがゆえに、日本は世界の中心である」といった考えは神代文字に容易に通ずるものであることを指摘している[16]

歴史

中世期

『文明4年(1472年)高野山版声明集』
卜部兼倶は神代文字は同書にみえるような「博士」、すなわち声明の旋律をあらわす符号に類似するものであると論じた。

上古の日本に独自の文字体系が存在したという説がとなえられるようになったのは、鎌倉期のことであり[15]卜部兼方の『釈日本紀』(鎌倉末期)には、以下のような記述がある[15][26][27]

卜部兼方、『釈日本紀』

同書には、「師説」によれば、「先帝」が大蔵省の御書所に「肥人の字」なる文字を写させたとある[28]。この文字には「乃」や「川」にみえるものがあったといい、兼方はこれを典拠として、弘法大師が仮名をつくったというのは誤りであり、上古にはすでに仮名があったと考えるべきであると論じた[27]。また、彼は、そうでなければ当時太占のような占いができたはずがないと述べている[26][27]。しかし、山田がいうように、亀卜と漢字の関係が緊密であったことが事実であったとしても、太占がそうであるとする根拠はない[28]。また、山田のように、ここでいう「師」とは矢田部公望のことであり、「先帝」は醍醐天皇を指すという論がある一方で[28]新村出は、公望の著作にそのような主張は存在しないとして、兼方あるいはその師の説であるという以上のことは言えないと論じている[29]

さらに、忌部正通正平22年・貞治6年(1367年)に執筆したとされる『神代巻口訣』は、より具体的に神代文字の存在に触れている。いわく「神代文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の典経始めて来朝す。推古天皇の朝に至って、聖徳太子漢字を以て和字に附す」とある[30]。同説は、上古の日本においては「象形文字」が用いられていたものの、聖徳太子による国史(国記天皇記)編纂にあたって廃されたというものである[31]

さらに、卜部兼倶(吉田兼倶)が応仁文明期に執筆した『日本書紀神代抄』には以下のようにあり、上古の日本には博士(声明の旋律をあらわす符号のこと)に類似した文字があったと述べている[32][33]。一方で、山田は兼倶は明らかに平安中期に生まれた五音博士(五声をあらわす博士)を下敷きにして同文字について論じていること、卜部家の祖先にあたり、上古の文字にも興味を持っていたはずの兼方がこの文字に対して一切触れていないことなどから、卜部家伝来の神代文字が存在したという説については疑問視している[34]

いろは四十七字は弘法大師之を作す。カタカナは吉備大臣之を作す。あいうえおの五十字は神代より之有る。神代の文字は一万五千三百六十字あるぞ。はかせと云が神代の字なり。伊弉諾伊弉冉天浮橋の上に立て曰く、底下豈に国無からんやと。すなわ天之瓊矛以て指下して之をかきさぐりしかば、是に滄溟あおうなばらを獲き。其後万物を生す時にうらをしたぞ。うら陰陽の源五行の変より起るぞ。其処から文字は出来るぞ。紙墨にあらわすばかり、文字ではないぞ。森羅万象は天地自然易なり。伏義空中に向かいて一画を下すは自然の文字なり。陰陽は元来一なり。散りて万物と為る処にて文字の数も多なるぞ。一念の心は多念はない。万物の転を被り、万念を作すほどに、文字も万物につれて、繁多になるぞ。亀を焦す時に、五にわりて配五行ぞ。変する時に一万余りを為すぞ。文字も万物の変に依て、五万三千余を為すなり。
卜部兼倶、『日本書紀神代抄』

また、兼倶の子である清原宣賢大永年中に記した『神代抄』には「神代の文字は秘事にして流布せぬ。一万五千三百六十字あり。其字形声明のはかせに似たり」とある[35]。宣賢の玄孫にあたる清原国賢も、慶長4年(1599年)の『日本紀神代巻奥書』において神代文字の存在に触れている[29]