石巻市(いしのまきし)は、宮城県北東部に位置する市である。2025年(令和7年)12月現在においては仙台市に次いで県内第二の人口を擁する。太平洋に面する港町であり、石巻圏の中心都市である。
概要
石巻市は2005年(平成17年)4月1日に石巻市・河北町・雄勝町・河南町・桃生町・北上町・牡鹿町の1市6町が合併して新しく発足した市であり、宮城県北東部に位置する都市である[2]。石巻圏内の多くの商店・工場などが立地し、さらに宮城県東部地方振興事務所といった石巻圏の市町を管轄する県の出先機関も集中しているなど、石巻圏の行政・経済の中枢を担っている。岩手県から南流する北上川は石巻市へ入ったところで二手に分かれ、それぞれ追波湾と石巻湾に注いでおり、石巻湾の河口周辺に市街地が広がっている[2]。市の東部・牡鹿半島は北上山地の南端部にあたり、リアス式海岸の複雑な地形で漁業や養殖業が盛んに行われている[2]。とくに黒潮(暖流)と親潮(寒流)がぶつかる潮目として世界三大漁場の一つである金華山沖は水産資源の宝庫となっている[2]。世界三大漁場金華山沖に近い本市は全国でも有数の水産都市となっており、石巻漁港の2019年(令和元年)の水揚げ量は約10万トンで日本国内第5位である[3][4]。内陸部では旧北上川がもたらした肥沃な土壌から稲作を中心とした農業も盛んで、施設野菜や花きなどの園芸作物に加え、肉用牛生産などの畜産経営を組み合わせた複合経営農業が展開されている[2]。
古代には、桃生城や牡鹿柵が建設され、蝦夷経営の拠点としての役割を担い、豪族道嶋氏が権勢をふるった[5][6]。蝦夷経営が安定すると、道嶋氏は退勢にかたむき、平安時代末期までに奥州藤原氏の影響下となった[7][8]。奥州藤原氏が源頼朝に征伐されると、牡鹿郡は奥州総奉行葛西氏、桃生郡は山内首藤氏、深谷保は長江氏の知行となり、戦国時代に滅亡した山内首藤氏を除いた両氏は16世紀末に至るまで当地方を支配した。江戸時代には仙台藩の支配下に入り川村重吉による北上川の大規模改修がなされ、舟運が活発になると内陸部から仙台・江戸への米輸送の拠点として石巻が注目され石巻港が開港した[9][10][11][12]。これにより、石巻港は水運交通の拠点に位置する「奥州最大の米の集積港」となり、石巻は交易都市として繁栄していった[9]。明治時代からは金華山沖の豊富な水産資源を背景に漁業の街として発展、また、戦後になると北上特定地域総合開発計画適用地域や新産業都市の指定を受け、石巻工業港が開港するなど工業都市としても発展を遂げてきた[13][2][9]。石巻が北上川水運を活かした交通拠点や豊富な水産資源を有する漁業の街として繁栄してきたことから「ロマンあふれる水の都・石巻」として国土交通省の水の郷百選にも選出されている[14]。また、近年ではマンガランド構想による町おこしが行われるほか、三陸縦貫自動車道開通に伴う蛇田地区の市街地化やイオンモール石巻の開業、石巻トゥモロービジネスタウンにおける企業誘致など商業のさらなる発展が期待されている[9]。
2025年(令和7年)9月現在では、石巻市は県下第2位の人口規模を誇るが、震災などの影響もあり人口減少が顕著である[15]。特に過疎地域に指定されている河北地区・雄勝地区・桃生地区・北上地区・牡鹿地区は人口減少が顕著に現れている[16]。2015年(平成27年)までの国勢調査を基に国立社会保障・人口問題研究所が作成した報告書によれば、1985年(昭和60年)ごろにピークを迎えた石巻市の人口は2040年には10万人を割り込み高齢化率は40%を突破することが予想されている[17]。2019年(令和元年)の合計特殊出生率は1.25で、宮城県の数値(1.23)よりか高かったが、日本全国の数値(1.36)よりか小さかった[18]。2018年11月29日の石巻市議会人口対策特別委員会によれば、2025年から2030年までの間に県下第3位の人口規模をもつ大崎市に人口が逆転され、県下第3位に転落する見込みとなっている[19]。国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、2060年ごろには人口5万人代になると予想されているが、石巻市は社会減を0にすることでこれを防ぎ、9万4千人を目指すとしている[20]。
地名の由来
「石巻」の地名の由来は諸説ある。以下に有力な説を挙げる。
- 伊寺水門由来説
日本書紀第十一巻仁徳天皇条にある「伊寺水門」が「石巻」の由来であるという説であり、江戸時代後期の地理学者である村岡良弼が天保10年(1839年)に『地理志科』で提唱した[21]。村岡によれば湊村がかつての伊寺水門にあたり、石巻は伊寺の牧つまり放牧地であったと解説している[21]。ただし、この説については一部で「石巻」の地名は戦国期まではさかのぼっても古代までさかのぼる地名とは考えられないとの見解もある[22]。
- 巻石由来説
巻石とは市内住吉町にある小岩で、『封内名跡志』によると住吉社のほとりにあった巨石(のちの巻石)で河水が渦を巻いて流れていたという故事が「石巻」の由来であるという説[23][24][25]。
- 牧山由来説
牧山は石巻市街地東部に位置する小山であり、往古は「石巻山」「石繞山(いしまきやま)」と呼称されていたとされ、これが「石巻」の由来になったという説[26][27]。
- アイヌ語由来説
鮭鱒の収穫が多いところを意味する「イソ・マシュキニ」または岬の開けたところを意味する「エサン・マッケ」などのアイヌ語の転訛からとしたという説[26][27]。
- 地名の由来の一つとされる巻石。
地理

2005年(平成17年)の広域合併により市域は(旧)石巻市の旧北上川下流域から、牡鹿郡女川町を除く三陸海岸南端、牡鹿半島一帯まで広がり、市の面積は555.45 km2を誇る[1]。市のほぼ中央を旧北上川が南北に縦断し、概ね旧北上川を境に土地利用や第一次産業の構造に変化が見られる。旧北上川右岸から西側の河南地区、桃生地区は仙台平野の東端部に位置し、石巻平野と北上川がもたらした肥沃な土壌から稲作を中心とした農業が盛んである[28]。一方の旧北上川左岸から東の地域は北上山地とリアス式海岸によって複雑な地形をしており、平地が少ないため農業は西部と比べて割合は低い[28]。東部では漁業や石巻湾内での養殖業などが盛んである。市の中央部河北地区の上品山には牧場があり、周辺では畜産業も行われている。
中心市街地は2025年(令和7年)4月策定の「第4期石巻市中心市街地活性化基本計画」によれば、立町や中央などを含む約56.4 haの中瀬地区から石巻駅にかけてのJR石巻駅南東部の地域であるとされる[29]。中心市街地は大きく分けて、交通・行政・医療・福祉機能を担う「駅前エリア」、生活・文化・交流・商業の機能を担う「立町・中央エリア」、観光・商業・交流機能の充実を図る「川沿いエリア」の3つに分けられる[30]。中心市街地の成り立ちは北上川流域地域から運ばれた米などの物資が北上川河口の石巻港に集積し、江戸期から明治期にかけて米屋や商店などが立地していったことを由来とする[31]。1912年(大正元年)の仙北軽便鉄道、1928年(昭和3年)の宮城電気鉄道の開通により市街地域は石巻駅方面に拡大し、戦後の復興においても石巻駅前から中瀬方面にかけて商店が増加していった[32][33]。近年では、「食と萬画を活かしたまちづくり」を基本方針に据えて中心市街地のまちづくりが展開されている[32]。
宮城県の地域区分では広域石巻圏[注 1]に含まれているほか、広域石巻圏と広域気仙沼・本吉圏が合わさった三陸エリアに含まれている場合も存在する[34][35]。気象庁の発表する緊急地震速報で用いられる区域では仙台市や塩竈市などとともに宮城県中部に区分される[36]。
地形
- 主な山
- 主な川
- 主な湖沼
- 主な湾
市内地域区分
石巻市は石巻市(新)発足前の旧7市町単位で本庁地区・河北地区・雄勝地区・河南地区・桃生地区・北上地区・牡鹿地区に分けられる[1][注 2]。各地区には石巻市役所もしくは総合支所が設置されており、各総合支所では各地区の行政サービスの提供を行っている。各地区の詳細については各地区の記事ないしは旧市町の記事を参照。
- 本庁地区 - 旧石巻市に相当する。市内最大の人口を擁し、市の行政・経済の中心を担う地区であり、中心市街地を含む。本庁地区のうち石巻地区は江戸期より北上川の河口に位置していたため流通の拠点として繁栄した。
- 河北地区 - 旧桃生郡河北町に相当する。飯野川(相野谷)を中心として市街地が広がっており、農業が盛んに行われている地区である[41]。
- 雄勝地区 - 旧桃生郡雄勝町に相当する。リアス式海岸に集落が点在する漁村地帯である。かつてはスレート産業や硯産業によって大いに栄え、郡下一の工場地帯と呼ばれていた。
- 河南地区 - 旧桃生郡河南町に相当する。本庁に次いで二番目に人口が多い地区であり、本庁以外の6地区で唯一人口1万人以上となっている。稲作を中心とした農業地帯である[42]。
- 桃生地区 - 旧桃生郡桃生町に相当する[42]。内陸に位置する農業が盛んに行われている地区である[42]。
- 北上地区 - 旧桃生郡北上町に相当する。自然豊かな地区であり、景勝地として著名な神割崎や北上川のヨシ群生地を擁する[43]。
- 牡鹿地区 - 旧牡鹿郡牡鹿町に相当する。牡鹿半島の先端部に位置する地区であり、漁村地帯である[43]。地区南部の鮎川浜はかつて捕鯨の街として栄えた[43]。
隣接自治体
気候
ケッペンの気候区分によると、石巻市の気候は温暖湿潤気候(Cfa)に属する。
年平均気温は11.9℃である。平年値では猛暑日が0.2日、真夏日が9.7日、夏日が58.8日、真冬日が2.1日、冬日が82.4日となっている[44]。
冬季は、近年でも-10℃を下回る気温が観測され、2021年1月9日に-11.1℃を観測している[45]。
年平均降水量は1091.3mmである。また、年平均降雪量は51cmである。
年平均日照時間は1946.7時間である。
| 極値[46] | 観測値 | 観測年月日 |
|---|---|---|
| 日最高気温 | 36.8℃ | 2007年8月15日 |
| 日最低気温 | -14.6℃ | 1919年1月6日 |
| 石巻特別地域気象観測所(石巻市泉町、標高42.5m)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 最高気温記録 °C (°F) | 15.2 (59.4) |
19.2 (66.6) |
20.7 (69.3) |
28.4 (83.1) |
30.7 (87.3) |
34.7 (94.5) |
35.8 (96.4) |
36.8 (98.2) |
34.0 (93.2) |
28.5 (83.3) |
23.7 (74.7) |
21.9 (71.4) |
36.8 (98.2) |
| 平均最高気温 °C (°F) | 4.8 (40.6) |
5.6 (42.1) |
8.9 (48) |
14.1 (57.4) |
18.7 (65.7) |
21.9 (71.4) |
25.2 (77.4) |
27.0 (80.6) |
24.2 (75.6) |
19.1 (66.4) |
13.2 (55.8) |
7.3 (45.1) |
15.9 (60.6) |
| 日平均気温 °C (°F) | 1.0 (33.8) |
1.6 (34.9) |
4.6 (40.3) |
9.6 (49.3) |
14.5 (58.1) |
18.3 (64.9) |
21.9 (71.4) |
23.6 (74.5) |
20.5 (68.9) |
15.0 (59) |
8.9 (48) |
3.4 (38.1) |
11.9 (53.4) |
| 平均最低気温 °C (°F) | −2.2 (28) |
−2.0 (28.4) |
0.5 (32.9) |
5.4 (41.7) |
11.0 (51.8) |
15.5 (59.9) |
19.5 (67.1) |
21.1 (70) |
17.4 (63.3) |
10.9 (51.6) |
4.6 (40.3) |
0.0 (32) |
8.5 (47.3) |
| 最低気温記録 °C (°F) | −14.6 (5.7) |
−13.1 (8.4) |
−10.3 (13.5) |
−5.0 (23) |
−0.1 (31.8) |
5.7 (42.3) |
8.3 (46.9) |
11.5 (52.7) |
6.2 (43.2) |
−0.7 (30.7) |
−4.6 (23.7) |
−10.5 (13.1) |
−14.6 (5.7) |
| 降水量 mm (inch) | 38.8 (1.528) |
31.0 (1.22) |
72.4 (2.85) |
86.1 (3.39) |
96.8 (3.811) |
110.6 (4.354) |
145.7 (5.736) |
115.8 (4.559) |
151.6 (5.969) |
137.9 (5.429) |
61.9 (2.437) |
42.8 (1.685) |
1,091.3 (42.965) |
| 降雪量 cm (inch) | 17 (6.7) |
16 (6.3) |
9 (3.5) |
1 (0.4) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
1 (0.4) |
8 (3.1) |
51 (20.1) |
| 平均降水日数 (≥0.5 mm) | 6.5 | 6.5 | 8.7 | 9.8 | 10.1 | 10.9 | 13.7 | 10.7 | 11.4 | 9.8 | 7.5 | 7.6 | 113.2 |
| 平均降雪日数 | 18.7 | 14.6 | 10.5 | 1.4 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 1.4 | 13.8 | 60.7 |
| % 湿度 | 71 | 69 | 67 | 68 | 74 | 80 | 84 | 82 | 80 | 76 | 73 | 73 | 75 |
| 平均月間日照時間 | 163.8 | 164.6 | 184.5 | 193.4 | 196.0 | 157.4 | 140.1 | 161.9 | 137.3 | 151.5 | 150.0 | 146.2 | 1,946.7 |
| 出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[47][48] | |||||||||||||
歴史
先史・古代
石巻地方に人が住み始めた歴史は旧石器時代まで遡る。市内の丘陵には国指定史跡の沼津貝塚をはじめとした沢山の貝塚が発見されていることから縄文時代には既に人々が集団生活を送っていたと考えられている[49][12]。弥生時代の石巻市域を伝える資料や遺跡は少なく、詳しい状況は分かっていないが、古墳時代の遺跡は数多く発見されており、新金沼遺跡からは数多くの土器が発見され、新金沼遺跡の近くにある新山崎遺跡からは方形周溝墓が発見されている[50]。
仁徳天皇の治世になると石巻地方が伊寺水門(いしみなと)という名称で歴史の表舞台に現れる。伊寺水門の位置は現在の湊周辺と比定されている。日本書紀仁徳55年条によると『蝦夷叛く。田道を遣して撃たしむ。則ち蝦夷の為に敗られて、伊寺水門に死す(現代語訳:勅命で征夷の軍を率いて蝦夷たちと戦った上毛野田道将軍が伊寺水門にて戦死した)』とある[51][52]。
朝廷による支配が当地へと及ぶようになり始めていた8世紀初頭、石巻地方の蝦夷らは海道蝦夷と呼ばれ、たびたび反乱を起こしていた。朝廷は海道蝦夷経営の拠点として牡鹿柵と桃生城を造営、当地に牡鹿郡・桃生郡を設置し律令制に石巻地方を組み込んだ[53][54]。牡鹿郡は天平期に成立し、桃生郡は桃生城のできた天平宝字期に分離独立したとされている[55]。8世紀中ごろになると牡鹿郡を本貫とする豪族道嶋嶋足が朝廷方の武人として活躍し、宿禰姓を賜姓されたり、陸奥国大国造や相模守、近衛中将に任ぜられたりするなど、地方豪族としては他に例を見ない出世を遂げた[6]。嶋足は陸奥国大国造として、蝦夷経営に坂上田村麻呂と並んで影響力を有していたとされ、牡鹿郡を拠点に蝦夷征討を行っていた[5][6]。このように朝廷の政治力は桃生・牡鹿両郡にまで及んでいたが、朝廷に恭順していた宇漢迷公宇屈波宇が「賊地」へ逃帰するなど、その統治は順調とは言えない状況であった[56][57]。宝亀5年7月25日には桃生城襲撃事件が発生し、城の西郭が破られた[56][58][57]。平安期になると征夷大将軍坂上田村麻呂らによる蝦夷討伐や植民を受けて徐々に海道蝦夷の反乱は沈静化し、同時に征夷が落ち着いたことで道嶋氏は没落していった[7][8]。
中世・近世
鎌倉時代になると源頼朝の奥州藤原氏討伐で軍功を挙げた頼朝配下の諸氏が奥州藤原氏旧領を支配した[7]。現在の石巻市域は大きく分けて牡鹿郡・遠島・桃生郡・本吉荘・深谷保に分かれていたが、牡鹿郡と遠島は葛西氏領、桃生郡北方は山内首藤氏領、深谷保は長江氏の支配下に入った[59][注 3]。葛西氏や山内首藤氏、長江氏は関東の氏族であったため、このころ石巻に関東の文化が流入したとされる[59]。葛西氏は石巻の地に石巻城を築き、葛西晴胤が寺池城(登米市登米町寺池)に移るまでの300年余の間、石巻を本拠地とした[60][61][9][62][63]。戦国時代、大崎氏・伊達氏などと勢力を競っていたが、戦国末期になると半ば独立した家臣らによる反乱に悩まされることとなった[64][65]。反乱の対処に追われていた当時の葛西氏当主葛西晴信は小田原征伐に参陣することができず、豊臣秀吉に敵意があるとみなされ、奥州仕置で改易されられた[66]。葛西氏の旧領には木村吉清が入り、石巻も木村氏の支配下に置かれた。一方、小田原に参陣して秀吉に服属した伊達氏は征服地のほぼ全てを没収された。伊達政宗は葛西・大崎の旧家臣を扇動して葛西大崎一揆を起こさせたが、これは豊臣秀吉に露見した。政宗は改易を免れたものの、今の福島県、宮城県南部、山形県南部から、おおよそ宮城県全域と岩手県南部へ転封させられた。こうして石巻地方は伊達氏の領地となり、江戸時代を迎えた。

江戸時代になると、川村重吉により寛永4年(1627年)に北上川・江合川・迫川が改修されたことで北上川で河川舟運が活発に行われることになった[10][11][12]。これにより、米穀類の海上輸送が開始され、大量の米穀類を保管し川船から海船への積み替え機能を有する港が必要になった[10]。そんな中、葛西氏浪人の米谷喜右衛門なるものが石巻港の開港を仙台藩家臣鈴木元信に進言し、元和8年(1622年)には石巻に藩の米蔵が設置され、以降、石巻は北上川流域から集荷される藩米を保管し千石船で江戸や仙台城下へと米を供給する藩米輸送機構の拠点として機能するようになった[10][67]。仙台藩や盛岡藩、一関藩、八戸藩などの江戸廻米は多くが石巻を経由して積み出され、年間20万石から30万石もの米が江戸に海上輸送されていた[68][69]。これは江戸の総消費米の4分の1にあたるとされる[68]。また、河村瑞賢による東廻り航路の開拓がなされると他藩の船も出入りするようになり、石巻港は「奥州最大の米の集積港」として発展し、石巻は交易都市として繁栄した[10][9]。石巻港の開港と時を同じくして、本町・中町を中心に町場が形成され、次第に石巻村・石巻村端郷住吉、蛇田村にまたがる大きな町場となっていった[70][71][72]。元禄期までには、北上川の河岸沿いに本町、中町、住吉町本町が続き、それに並列するように横町・裏町・住吉町新町・蛇田町が石巻町に配置された[73]。
江戸中期には、石巻は仙台に次ぐ藩内第二の都市としての様相をなし、享保期には新田町の奥に鋳銭場所が設けられ、仙台藩内で唯一鋳造を許された[74][73][75]。鋳銭場所では寛永通宝(享保仙字銭)や仙台通宝などが鋳造され、現在でもその名残として鋳銭場という町名が石巻駅前に残っている[75][76][77]。
サン・ファン・バウティスタ号と石巻
慶長18年(1613年)9月15日に仙台藩初代藩主伊達政宗がスペイン帝国との通商交渉のためにスペイン本国およびローマ法王庁に支倉常長を正使とする慶長遣欧使節を派遣した[78]。政宗は当時スペイン領だったメキシコとの太平洋貿易を計画しており、月ノ浦[注 4]でサン・ファン・バウティスタ号を建造して同地から出航させた[78][79]。支倉一行はチヴィタヴェッキアに上陸し、その後スペイン帝国フェリペ3世に謁見、政宗の書状を渡すことに成功するなど、交渉は順調に進んだかのように思えたが、日本国内でのキリシタン禁制がヨーロッパに伝えられたことでスペインとの通商は実現しなかった[79]。通商の目論見は失敗に終わったが、350余年後に慶長遣欧使節団を縁として石巻市とチヴィタヴェッキア市は姉妹都市となった[79]。
若宮丸の漂流と日本人世界一周
寛政5年11月27日(1793年12月29日)、石巻湊から江戸へ向けて千石船「若宮丸」が出港した[80][81]。しかし、その途上、岩城沖で若宮丸は舵を失って、アリューシャン列島に漂着した[81]。乗員一行はロシア人の助けを受けナアツカ島で1年ほど生活したが、ロシア本土へ移送されることになり、イルクーツクまで移動した[81][82]。しかし一行はここで約7年間、抑留された[81][82]。これは、日本との交易を望んでいたロシア皇帝エカチェリーナ2世が死去した影響によるものと考えらえている。ロシア皇帝としてアレクサンドル1世が即位すると、交易の交渉材料として若宮丸一行を帰国させることが計画され、一行は首都サンクトペテルブルグでアレクサンドル1世に謁見した[81]。石巻出港時に16人だった乗員はここまで数人が病気により死没または脱落しており、皇帝に謁見したのは10名で、このうち4人が帰国を希望した[81]。この4名はニコライ・レザノフの使節団と共に大西洋、南太平洋などを経由し、文化元年9月6日(1804年10月9日)に長崎へ到着した[81]。4名は長崎や江戸で抑留、取り調べを受け、江戸から故郷に向けて出立したのは漂流から約12年後の文化3年2月下旬(1806年)のことだった。この4人の名は津太夫、儀兵衛、太十郎、左平で、日本人として初の世界一周の事例と言われている[83][84]。また、ロシアに残留した善六はゴローニン事件の際の日露間の文書翻訳者として歴史に名が残る[85][84]。
近代
明治維新
戊辰戦争で敗北した仙台藩が、明治元年に表高62万石から28万石に知行域を減らされた際、牡鹿郡、桃生郡、本吉郡は仙台藩から分離され、高崎藩の取締地になった[86]。明治2年7月に、これら3郡は明治政府直轄の桃生県となり、一箇月後には石巻村の御仮屋(本町御殿横丁)と代官屋敷跡に石巻県庁が置かれ石巻県と名を変えた[87][88]。明治3年9月に石巻県は涌谷に県庁を置く登米県に併合され、石巻には県庁の出張所が置かれた[89][90][91]。明治4年4月に政府は小倉の西海道鎮台と共に、石巻に東山道鎮台を設置することを決めたが、同年8月に、鎮台は東京、大阪、熊本、仙台に置くことと改められた[92]。
町制施行から戦時期まで
1889年(明治22年)4月1日に宮城県で町村制が施行され、石巻村・門脇村・湊村[注 5]の区域をもって牡鹿郡石巻町が成立[97]。旧3村の区域をもって大字石巻・大字門脇・大字湊の3大字を編成した。町村制施行に際して、石巻町となった旧3ケ村とともに連合村を形成した蛇田村との合併や門脇村の端郷であった釜・大街道の蛇田村への分合なども模索されたが、実現には至らなかった[95]。
明治初期、船の大型化が進み水深が浅い河口港の石巻の海運は急速に衰え、全国十六港の一つといわれた石巻港は没落し廃港同然の状態であった[98][99][100][101]。石巻港の修築は不可能と判断した明治政府は野蒜築港の建設に乗り出し、内務省主導で整備されることとなった[102][103]。石巻地方の住民らは依然として北上川河口に位置する石巻港の修築を強く希望していたが、お雇い外国人コルネリス・ファン・ドールンによる調査で石巻港の修築は「土砂多量にして不可である」とされ、結局野蒜村の地に築港がなされることとなった[104]。しかし完成した港は開港してからわずか3年の1884年(明治17年)秋に襲来した台風により壊滅し、廃港となった[105]。野蒜築港の失敗を受けて、桃生牡鹿両郡の有志は牡鹿郡渡波町佐須字本網に本網築港を建設することを要望し、宮城県会も請議書を内務省に提出したが、これも失敗した[106]。また、明治末には日本鉄道が上野駅を起点に開業した東北線が東北地方で開業したことにより[注 6]、それまで北上川の船運を利用していた岩手県南部からの荷物が鉄道に奪われることとなった[98]。船の大型化と日本鉄道東北線の開通により、かつて北上川の舟運により発展し仙台藩・盛岡藩でとれた米を上方へ輸送する拠点としての役割を占めてきた石巻は明治40年を頂点に前後30年にわたって町勢が衰退することとなった[98]。豪勢を誇っていた米穀問屋は次々に没落、「石巻では食っていけない」と仙台市や宮城郡塩竈町に夜逃げする者もいた[99]。1898年(明治31年)の石巻町事務報告書は当時の状況について
前年度より引き続き商工業不振を来し、物価高なお日日に度を増し、加えて米価は倍々暴騰し、外国米の輸入に依り、僅かに高騰を抑え、整形の資なくほとんど苦境に陥りたる状況。殊に商家は金融の逼迫により、商事の目的を遂げる能わずようやく家業を持続するのみ。加えて町内、度々の大火災あり、罹災者は家財道具とともに焼尽し、惨状を追想せば痛嘆に堪えざるなり。
と記している[98][99]。こういった背景があり、石巻町は町勢挽回の手段として「陸上交通の改善」「石巻港の修改築」の達成に向けて運動を開始した[108]。「陸上交通の改善」がなされたのは1912年(大正元年)の仙北軽便鉄道小牛田駅 - 石巻駅間開通であった[109]。仙北軽便鉄道は小規模な鉄道ではあったが、旅客以外に農産物や鮮魚、生活必需品の輸送に大きな影響を与え、町は頽勢挽回の兆しを見出した[109][110][111]。世間はこれを「石巻の夜明け」と表現した[109][110][111]。鉄道敷設と時を同じくして、1912年(大正元年)には水深が浅くなり水運に支障をきたしていた北上川の浚渫工事が着工した[112]。当時としては最大規模の機械力をもって行われたこの竣工工事は1913年(大正2年)には600トン汽船が自由に出入りできるようになるほど浸水が深くなり、廃港寸前といわれた石巻港は復活を遂げた[112]。なお、その後も北上川の工事は続けられ、1913年(大正2年)からは本格的な北上川改修工事に入り、1935年(昭和10年)に竣工した[113]。大正中期に至り、鉄道の敷設と北上川の竣工に成功した石巻町では徐々に町勢が回復し、徐々に日和山といった山の手地区などの宅地化が進んだ[114]。こうして成立した新興住宅街や都市化が進んだ下町地区では新町名(ただし通称地名)が設置されることとなり、日和町(門脇字海門寺前)を皮切りに寿町(石巻字裏町裏)や泉町(石巻字八ツ沢・北鰐山)といった町が設けられた[114][115]。このように明治期に一旦没落した石巻町の町勢は、大正期になって鉄道敷設や北上川の改修などといった出来事もあり、回復へ向かった[112]。
1933年(昭和8年)、第14代石巻町長石母田正輔のもと、上水道の整備および市制施行の二大懸案が実現された[116]。上水道は石巻初の近代都市設備と言われており、また町の興亡をかけた一大事業であった[116]。市制施行の実現は仙台市(1889年4月1日市制施行)に続く県内2番目であり、4月1日に牡鹿郡石巻町を廃して石巻市が成立した[116]。同日に町をあげての市制施行奉告祭が鹿島御児神社で行われ、また、川開き祭り前日の8月5日に内海橋架替え工事落成式と合わせて、上水道の落成式・市制施行祝賀会が執り行われた[116][117][118]。初代石巻市長には上水道工事と市制施行実現を成し遂げた石母田を推す声が圧倒的で、一部では仙台市助役奥海浩擁立の動きも見られたものの市会議員による選挙の結果、石母田が初代石巻市長に就任した[117]。石母田は市長になるや否や、「隣接町村との合併」「都市計画の実施」「港湾修築」「市制施行後将来の計画」の4つの事業計画案を決定した[119][120]。「隣接町村との合併」については、市制施行時に成し遂げることができなかった隣接町村との合併、すなわち渡波町、蛇田村、稲井村との合併計画を指し、事業計画案では早晩の実現にむけて努力すべしと述べられている[119]。「港湾修築」については臨海鉄道の敷設、臨海道路の新設、善海田埋立地付近における臨港運河の開鑿が盛り込まれた[119]。「市制施行後将来の計画」については港湾埠頭から住吉に至る環状運河の開鑿、電気鉄道の敷設、万石浦港湾修築に伴う運河の開鑿、石巻渡波間における工場地帯の整備、塩釜港との連絡航路たる北上運河の改修、産業の統制と経済機関(商工会など)の設立、下水道の敷設、教育設備の改善、町立幹線の改善と舗装、石巻港の第二種重要港湾編入の促進、観光誘致、市民の納税思想の改善などの事業が盛り込まれた[120]。
戦時下における石巻
1931年(昭和6年)9月に満州事変が開戦すると、中国向けの干し鮑やナマコ、イリコ、サメ、エビといった海産物の輸出が停止し、経済的な打撃を被った[118]。これに加えて、当時は全国的に不況が続いていたため、苦しい生活を強いられることとなった[121]。しかし、1932年(昭和7年)から石巻では半額国庫負担の港湾整備事業実施の指定を受け、ついて1934年(昭和9年)からは時局匡救事業として浚渫・護岸・桟橋などの工事が実施され、かねてから計画されていた港湾修築が行われた[121]。これによって、石巻港の船舶出入りは増加し、貨物量も増え、1935年(昭和10年)には門脇に魚市場が開設された[121]。当時、進められていた水道工事や河口改修といった事業と合わせて、港湾修繕事業と周辺地域の開発は石巻に莫大な労働力需要を創出し、石巻は港湾都市として飛躍的に発展した[121][122]。
石巻が太平洋沿岸部の港湾都市として発達していった一方で、中国大陸における戦争は拡大していった[122]。そのため、石巻は軍の演習用地として利用されるようになり、1932年(昭和7年)8月には渡波町の長浜海岸で仙台騎兵隊の水馬練習が実施され、1933年(昭和8年)10月には日本海軍による演習が実施された[122]。この演習では帝国海軍の艦隊が田代島・網地島沖合に集結し、艦隊と航空機の空中戦の演習や渡波への敵前上陸演習が行われた[122]。また、1934年(昭和9年)6月には、横須賀基地を出発した帝国海軍の大規模な演習が行われ、比叡以下30隻の軍艦と霞ヶ浦航空隊および航空母艦搭載機約30機が参加し、また北上川河口の石巻から渡波海岸にかけて300名の陸戦隊が敵前上陸演習を行った[122][123]。石巻市ではこれに合わせて、空襲に対する防空演習が実施された[123]。その後もたびたび第2師団工兵部隊の渡河工作や上陸作戦の演習が行われ、1937年(昭和12年)にはそれまでの仮兵舎による演習ではなく、最新設備を備えた陸軍工兵廠舎が水押に建設された[123]。このような軍の動向に対して石巻市民は物品の寄付や少年飛行士を要請する練習機を献納する運動などが起こった[123]。1935年(昭和10年)の川開き祭りの際には、少年飛行士や女性パラシュート士らが来石し、観客の人気を集めた[123]。
1940年(昭和15年)頃、各種行事(調査の実施や勤労奉仕など)の動員を有効に処理する組織として、都市部で町内会が、農漁村部で部落会が組織され、その下に隣組がおかれた[124][125]。町内会や隣組は配給制度の下請けとしても利用され、1940年(昭和15年)8月から木綿・ガラ紡毛布や木炭の切符配給制が、1941年(昭和)2月から米穀の配給通帳制が始まった[126]。1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦すると、物資はさらに不足し、妊婦や乳幼児に対する特別配給の削減や「横流し」される闇物資の物々交換[注 7]の横行が深刻化していった[127]。
太平洋戦争における大日本帝国の敗北が濃厚になっていき、1945年(昭和20年)7月になると、石巻地域では一日に数度に及ぶ警戒警報や講習警報が発せられるようになり、学校での授業もままならなくなっていった[128]。8月10日、矢本飛行場と女川の海軍基地を攻撃するために金華山沖に集結した米海軍航空母艦から出撃した爆撃機数機が石巻を爆撃した[129][130]。中瀬の村上造船工場や坂下町・日和町などの民家、石巻小学校に機関掃射、爆弾投下がなされ、造船工場の作業員6名が死亡した[130]。仙台空襲のような焼夷弾攻撃ではなかったため、大きな被害は出なかったものの金華山沖に肉眼でも見えるほどに接近した空母から飛来する艦載機によって空襲の頻度は激しくなっていった[123][123]。また、1945年(昭和20年)頃にはアメリカを中心とする連合国軍の本土上陸を見据えて、荻浜村荻浜や大原村小網倉浜・小渕浜に敵艦に小艦艇をもって体当たり攻撃を行う計画の海軍特攻隊基地の建設が進められていたとされる[131][132]。
現代
戦後

1945年(昭和20年)8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏、太平洋戦争は日本の敗戦という形で幕引きを迎えた[133]。9月11日には松島町に進駐軍の先遣隊が到着し、石巻にも進駐軍が駐留した[133]。1946年(昭和21年)3月には石巻市長岩崎孫八が公職追放により失職し、1947年(昭和22年)4月5日、堺武志が初の公選石巻市長として第5代石巻市長に就任した[134]。
1950年(昭和25年)、堺武志が「大石巻建設構想」を提唱し、渡波町との合併、渡波港と連携した外港計画(渡波新港構想)が浮上した[135]。これに呼応する形で1952年(昭和27年)4月9日、大石巻港期成同盟会が結成され、石巻港の根本改修と外港の建設を北上特定地域総合開発計画に盛り込むべく運動を開始した[135]。外港建設要求運動のなかで渡波新港構想は一つの流れであったが、宮城県は釜工業港案を県の工業立地構想に関連して提起した。1952年(昭和27年)7月23日の第三回北上特定地域総合開発審議会に向けて北上川河口近くから釜入江間4.5 kmに幅50m水深4.5 mの外港を整備し、矢本町・小野村方面の工業地帯化に役立たせるという石巻港湾計画案を策定した[135][136]。第三回北上特定地域総合開発審議会では大石巻港建設計画案に基づく1952年(昭和27年)から1965年(昭和40年)度の石巻港建設改良事業費21億7,172万円が可決された[136]。しかし、後日北上特定地域小委員会にかけられた政府案では、実施すべき事業として石巻港の修築工事1億700万円のみが計上され、外港整備は当面緊急性が少ないとされた[136]。宮城県や審議会の動きに対して、矢本町は石巻市と矢本町の中間に位置する定川河口と釜入江を掘削・浚渫して大工業港を建設するという「矢本・石巻大工業港建設計画」を策定し、石巻市の西部に工場地帯を建設する運動を開始した[136]。一方の石巻市は釜地区に72万坪、湊地区に10万坪の工場用地の造成が可能であるとし、臨海工場地帯の整備構想が東西二本立てで統一されていなかった[136]。1958年(昭和33年)1月、東北開発促進計画へ盛り込む事業を宮城県に提出したが、3,000トン入港の外港建設の位置をめぐって、市議会企画審議委員会は釜入江案と長浜案(湊地区)で対立した[137]。しかし両論譲らなかったため、とりあえず釜入江案建設で要望することが決定した[137]。合わせて釜入江に造成される工業用地の幹線道路整備、雲雀野海岸に防潮堤を築き、その内側に埋立工業用地を造成することを要望したため、工業用地造成と連動して釜入江案に傾倒してゆくことは明らかであった[137]。1958年(昭和33年)、県が臨海工業地帯整備構想で釜地区に外港整備構想を一本化する方針を石巻市に通知したことを受けて、同年6月、市議会企画審議委員会では3,000トン入港の釜工業港建設案と隣接地の38万2,900坪の臨海工業用地造成案を議決した[137]。なお、渡波新港案は新漁港建設構想に切り替え、釜工業港と併行して要望運動が展開された[137]。1960年(昭和35年)度には、石巻工業港建設が予算化され、着工に踏み切った[138]。1964年(昭和39年)3月には石巻市が仙台湾新産業都市に指定され、石巻工業港が重要港湾に指定された[138]。そして着工から7年目の1967年(昭和42年)6月に正式に開港指定を受け、供用が開始された[138]。こうして石巻には戦前から立地している製紙業も含めて軽工業を主とする臨海工業地帯が完成した[139]。

高度経済成長期に至るまで、船運が鉄道やトラック流通に置き換わっていったため、港の機能は沿岸漁業から遠洋漁業まで対応する漁港として発達。造船所や石巻工業港の建設によって第二次産業も発達した。旧北上川河口沿岸は、江戸時代からの港町として「川湊」と呼ばれ、花街が形成されるほど栄えた[140]。これらの産業基盤によって都市化が進み、商業などの第三次産業労働者が多くを占め、宮城県東部の商業拠点となった。
平成以降


1995年(平成7年)7月、菅原康平市長と石ノ森章太郎が対談し、その中でシャッター街となった石巻の中心市街地ににぎわいをもたらし、様々な情報を発信していく事を目的として、石ノ森が学生時代によく劇場で映画を見ていた中瀬の地にマンガミュージアムを建設する話が持ち上がった[141]。この対談をもとに石ノ森萬画館を建設する構想「マンガランド構想および基本計画」が策定され、1999年(平成11年)にはマンガロードが 2000年(平成12年)4月には田代島に市営キャンプ施設「マンガアイランド」を、2001年(平成13年)7月には石ノ森萬画館がオープンした[141][142]。
2005年(平成17年)4月1日、石巻市(初代)・河北町・雄勝町・河南町・桃生町・北上町・牡鹿町の1市6町が合併し、石巻市(2代目)が発足。新市の名称は市民からの応募により決定した[143]。応募数は4,314件、有効応募数は3,293件で、主な名称案は「石巻市」が1,282件、「いしのまき市」が354件、「新石巻市」が94件、「南三陸市」が51件、「日和市」が50件、「石の巻市」が39件となっていた[143][144]。地域別に見ると北上町以外の1市5町では「石巻市」が最も多く、北上町では「いしのまき市」が最も多かった[144]。近隣の矢本町や鳴瀬町、女川町との合併も検討されたが、実現しなかった。詳細は石巻市の行政区域の変遷#平成期の合併や宮城県における平成の大合併#石巻市も参照。
2011年(平成23年)3月11日には、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、甚大な被害を被った。詳細は#東日本大震災の被害を参照。
震災により、旧来の市街地(石巻駅前付近)の人口が激減し、代わりに内陸の蛇田地区や新蛇田地区の人口が激増した[145]。新蛇田地区は震災前に人口100人ほどだったのが、震災後の2021年(令和3年)には人口5,000人を突破した[145]。もともと蛇田地区・新蛇田地区は震災により住居をうしなった世帯が仙台市といった市町村に流出するのを防ぐ狙いで住宅地の造営が行われ、市は蛇田地区・新蛇田地区よりか川湊地区の開発に注力したが、石巻あゆみ野駅の新設やスーパー・飲食店の出店などといった民間企業の影響もあり、中心市街地から蛇田・新蛇田地区への人口流出は止まらなかった[145]。市が2021年(令和3年)1月に実施した市民の意識調査によれば、中心市街の利用頻度は「月1回程度」「ほとんど行かない」が合わせて半数を超えた[145]。
沿革
- 天平年間 - 牡鹿郡建郡[55]。
- 天平宝字年間 - 牡鹿郡より桃生郡が分離独立[55]。
- 天文年間 - 葛西氏が石巻から寺池に本拠地を移す[146]。
- 寛永4年(1627年) - 川村重吉により北上川の改修がなされる[147]。
- 享保13年(1728年) - 石巻で初めて鋳銭が行われる[76][148]。
- 明治2年
- 明治3年9月28日 - 石巻県が登米県に併合され、県庁の出張所が置かれた[89][90][91][87]。
- 明治4年
- 明治5年1月8日(1872年2月16日) - 宮城県に編入[88]。
- 1873年(明治6年)3月7日 - 宮城県共立社病院石巻分局病院が門脇村の旧南部藩蔵屋敷跡に設置される[97][150]。
- 1884年(明治17年)7月1日 - 宮城県共立社病院石巻分局病院を石巻公立病院に改組[150]。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により牡鹿郡石巻町が発足。
- 1907年(明治40年) - 石巻小学校附属図書館をもって石巻町立図書館とする[151]。
- 1912年(大正元年)10月28日 - 仙北軽便鉄道(小牛田駅 - 石巻駅)開通[110]。
- 1923年(大正12年)4月1日 - 宮城県石巻中学校が開校[152]。
- 1926年(昭和元年)10月 - 公立病院が日本赤十字社宮城支部に譲渡され石巻赤十字病院となる[153][154]。
- 1928年(昭和3年)11月 - 宮城電気鉄道(仙台駅 - 石巻駅)開通[155]。
- 1933年(昭和8年)
- 1937年(昭和12年) - 水押に陸軍工兵廠舎が完成[123]。
- 1938年(昭和13年) - 東北振興パルプ石巻工場が設置され、1940年に操業を開始[157][158]。
- 1939年(昭和14年) - 国鉄石巻線石巻駅 - 女川駅間延伸。
- 1947年(昭和22年)
- 1951年(昭和26年)12月 - 北上特定地域総合開発計画の適用地域に指定される[13]。
- 1964年(昭和39年) - 新産業都市として指定を受ける[9]。
- 1967年(昭和42年) - 石巻工業港が供用開始[139]。
- 1969年(昭和44年)4月 - 4つの事務組合が統合され、石巻圏の1市9町の間で石巻地区広域行政事務組合が設置される[161][12]。
- 1971年(昭和46年) - 立町商店街にアーケードができる[162]。
- 1988年(昭和63年) - 石巻専修大学が開学。
- 1990年(平成2年) - 石巻駅の2つの駅舎が統合された[163]。
- 1993年(平成5年) - 石巻地域が地方拠点都市に指定[164]。
- 1996年(平成8年) - ダックシティ丸光石巻店が閉店[32]。
- 2008年(平成20年)1月 - JR石巻駅前のさくら野百貨店石巻店が閉店[165]。
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 3月11日 - 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)発生。
- 11月18日 - おしかのれん街開設。
- 2015年(平成27年)
行政区域の変遷
ここでは石巻市およびその前身市町村の合併による行政区域の変遷を主に述べる。軽微な境界変更や所属未定地編入も含めた市域拡大については石巻市の行政区域の変遷を参照。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により石巻村・門脇村・湊村が合併して、牡鹿郡石巻町が発足[40]。
- 1933年(昭和8年)4月1日 - 市制施行により石巻町の区域をもって石巻市が成立[168]。
- 1949年(昭和24年)4月1日 - 蛇田村のうち山下地区を編入。
- 1955年(昭和30年)1月1日 - 蛇田村を編入[168]。
- 1955年(昭和30年)4月10日 - 荻浜村を編入[168]。
- 1959年(昭和34年)5月15日 - 渡波町の一部を編入[168]。
- 1967年(昭和42年)3月23日 - 稲井町を編入[168]。以降、石巻市は「十万都市」となる[169]。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 石巻市が桃生郡桃生町・河南町・河北町・北上町・雄勝町および牡鹿郡牡鹿町と合併し、その区域をもって石巻市(新)が発足[168]。
政治
市長
(旧)石巻市長
- 初代:石母田正輔(1933年4月 - 1937年3月)[170]
- 2代:佐藤真平(1937年4月 - 1938年11月)[170]
- 3-4代:岩崎孫八(1938年12月 - 1946年3月)[170][171][172]
- 5代:堺武志(1946年7月 - 1951年4月)[171][134][注 8]
- 6代:清野源助(1951年4月23日 - 1955年4月13日)[171][134]
- 7代:山内習(1955年5月4月30日 - 1958年3月28日)[171][134]
- 8-11代:千葉堅弥(1958年5月9日 - 1972年10月15日)[171][134]
- 12-14代:青木和夫(1972年11月19日 - 1984年11月18日)[134]
- 15-16代:平塚真治郎(1984年11月19日 - 1992年4月13日)[134]
- 17-19代:菅原康平(1992年5月24日 - 2002年12月9日)[134]
- 20代:土井喜美夫(2003年1月26日 - 2005年3月31日)
(新)石巻市長
議会
市庁舎
- 蛇田支所
- 荻浜支所
- 渡波支所
- 稲井支所
- 牡鹿総合支所大原出張所
- 石巻市では合併した町村単位で支所もしくは総合支所が設置されている。(旧)石巻市が市制施行してから消滅するまでに吸収合併した4ケ町村にはそれぞれ支所が設置され、平成の大合併で(旧)石巻市と対等合併した旧6ケ町には総合支所が設置されており、それぞれの地区の行政事務を分掌している。
- 石巻市役所本庁舎
- 河北総合支所(旧河北町役場)
- 雄勝総合支所
- 河南総合支所(旧河南町役場)
- 桃生総合支所
- 牡鹿総合支所(旧牡鹿町役場)
- 石巻市役所旧庁舎(旧石巻市役所)
市のシンボル
石巻市章・ロゴマーク

石巻市章は2005年(平成17年)4月に制定された[1]。デザインは「石巻」の石の字を図案化したもので、その中には、「燦然と輝く太陽」、「清らかな月」、「夢をもつ星」の三つが丸く組み合わされており、 夢と希望があり、発展へのたくましい躍進と市民全体の融和団結の姿が表されているとされている[173]。なお、石巻市章は旧石巻市の市章と同一のデザインであり、2005年に旧石巻市が河北町他5町と合併するにあたって消滅した際に2代目石巻市に引き継がれたものである。旧石巻市において石巻市章は1933年(昭和8年)6月23日に市会で定められた[93]。
石巻市のロゴマークは2025年(令和7年)1月7日に発表された。ロゴマークには「めぐる、いしのまき。」というキャッチコピーが添えられている[174]。
マスコットキャラクター
2009年(平成21年)4月に石巻市のマスコットキャラクターとしていしぴょんずが制定された[1]。「いしぴょん」は、石巻の「石」の擬人化をモチーフに、手には大きな魚を持ち「食彩・感動 いしのまき」がイメージされている[175]。
都市宣言
施設
官公庁
- 国家機関
- 復興庁宮城復興局[179]
- 国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所[180]
- 国土交通省東北運輸局石巻海事事務所[181]
- 海上保安庁宮城海上保安部石巻海上保安署[182]
- 仙台法務局石巻支部[183]
- 仙台地方検察庁石巻支部・石巻区検察庁[184]
- 国税庁仙台国税局石巻税務署[185]
- 横浜税関仙台塩釜税関支署石巻出張所[186]
- 横浜植物防疫所塩釜支所石巻出張所[187]
- 県機関
警察
消防
石巻地区広域行政事務組合に消防本部が設置されたのは1976年(昭和51年)4月であった[192]。最初は石巻圏内に石巻・矢本の2消防署のほか、4分署、8出張所が設置されていた[192]。度重なる組織再編を経て2025年(令和7年)現在においては石巻市内に以下の消防署・分署・出張所が設置されている[192]。
医療
石巻市は県内の医療地域区分では石巻・登米・気仙沼医療圏に含まれている[194]。
郵便局
以下に2025年(令和7年)8月現在における石巻市内の郵便局の一覧を記す。なお、(休)の印が付いているものは東日本大震災などの影響で営業を休止している郵便局を指す。
- 雄勝郵便局(集配局)
- 河北郵便局(集配局)
- 桃生郵便局(集配局)
- 渡波郵便局(集配局)
- 網地島郵便局
- 鮎川郵便局
- 石巻旭町郵便局
- 石巻大街道郵便局
- 石巻鹿妻郵便局(休)
- 石巻水明郵便局
- 石巻立町郵便局
- 石巻中央一郵便局
- 石巻のぞみ野郵便局
- 石巻双葉町郵便局
- 石巻湊郵便局
- 石巻山下郵便局
- 稲井郵便局(休)
- 大川郵便局(休)
- 雄勝郵便局
- 荻浜郵便局(休)
- 樫崎郵便局
- 河南郵便局
- 鹿又郵便局
- 神取郵便局
- 北上郵便局
- 橋浦郵便局
- 広淵郵便局
- 船越郵便局(休)
- 蛇田郵便局
- 陸前相川郵便局
- 和淵郵便局
- 伊原津簡易郵便局
- 浜江場簡易郵便局(休)
- 青葉簡易郵便局(休)
運動施設

金融機関
石巻市に本店・支店・出張所などの窓口を置く金融機関は以下のとおり(2025年(令和7年)時点)。なお、括弧内は窓口事務所数(事務所数1の場合は省略)。
姉妹都市・提携都市
海外
- 姉妹都市
- 友好都市
国内
- 姉妹都市
- 友好都市
災害時相互応援協定
2025年(令和7年)11月25日現在において、石巻市は以下の自治体および機関と災害時相互応援協定を締結している[227]。
| 締結先 | 締結日 |
|---|---|
| 牡鹿郡女川町 | 1996年(平成8年)9月6日 |
| 東松島市 | |
| 宮城県東部地方振興事務所 県総務部危機対策課 |
2004年(平成16年)7月26日 |
| ひたちなか市 | 2006年(平成18年)2月13日 |
| 平塚市 | 2006年(平成18年)4月1日 |
| 葛飾区 | 2011年(平成23年)7月22日 |
| 中央区 | 2012年(平成24年)4月5日 |
| 大崎市 | 2012年(平成24年)4月12日 |
| 新庄市 | |
| 酒田市 | |
| 湯沢市 | 2012年(平成24年)7月10日 |
| 西村山郡河北町 | 2012年(平成24年)8月4日 |
| 板野郡藍住町 | |
| 八代市 | 2012年(平成24年)11月15日 |
| 丸亀市 | 2012年(平成24年)11月21日 |
| 狛江市 | 2013年(平成25年)2月6日 |
| 諏訪市 | 2015年(平成27年)11月12日 |
| 芦屋市 | 2016年(平成28年)3月11日 |
| 萩市 | 2016年(平成28年)4月8日 |
| 柏崎市 | 2022年(令和4年)10月18日 |
| 渋谷区 | 2024年(令和6年)8月1日 |
地域
人口
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
推計人口による石巻市の推計人口は、2026年6月1日時点で127951人である。人口動向を見ると、石巻市域に相当する地域の人口は、1940年から1945年にかけて急増し、以降も概ね単調に増加していき1985年にピークである186,578人に達した[229]。1985年からは緩やかに人口減少が進行し、2011年に東北地方太平洋沖地震が発生したことで人口が激減した[15]。平成の大合併を経て2005年に石巻市が発足した際に171,107人いた人口は震災により4万人近く減少した[230][15]。
2015年(平成27年)までの国勢調査を基に国立社会保障・人口問題研究所が作成した報告書によれば、1985年(昭和60年)ごろにピークを迎えた石巻市の人口は2040年には10万人を割り込み高齢化率は40%を突破することが予想されている[17]。2019年(令和元年)の合計特殊出生率は1.25で、宮城県の数値(1.23)よりか高かったが、日本全国の数値(1.36)よりか小さかった[18]。2018年11月29日の石巻市議会人口対策特別委員会によれば、2025年から2030年までの間に県下第3位の人口規模をもつ大崎市に人口が逆転され、県下第3位に転落する見込みとなっている[231]。国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、2060年ごろには人口5万人代になると予想されているが、石巻市は社会減を0にすることでこれを防ぎ、9万4千人を目指すとしている[20]。
市内の11地区[注 15]別にみると、2005年時点の人口と2025年時点の人口を比べたとき、蛇田地区以外の10地区で人口が減少していた[230]。特に沿岸部の人口減少は深刻で雄勝地区は80.8 %減、荻浜地区は65.7 %減、牡鹿地区は62.2%減、北上地区が54.2%減、河北地区が31.0%減であった[230][16]。中心市街地を擁する石巻地区でも33.2%減となっており、中心市街地の空洞化が問題となっている[230]。一方、震災による内陸部への住宅需要の増加により、蛇田・稲井・河南の3地区では人口が増加ないし横ばいとなった[230]。特に蛇田地区では大型店舗の出店や三陸沿岸道路の開通による交通の便の改善なども伴って、32.4 %の人口増となった[230]。
2019年の合計特殊出生率は1.25で、宮城県の数値(1.23)よりか高かったが、日本全国の数値(1.36)よりか小さかった[18]。
町・字
市外局番
経済

産業の概要
石巻市の主要な産業は、水産業と県下第二の集積を見せる商業である。水産業は特定第三種漁港に指定されている漁港である石巻漁港を中心とした漁業のほか各地で行われる養殖業が中核を担っており、商業はイオンモール石巻を擁する蛇田地区における小売業が中核を担っている。その他、特色的な産業として木材・木製品製造業やパルプ・紙・紙加工品製造業などが挙げられる。これら木材関連産業は、1967年(昭和42年)に石巻工業港が完成し木材の集積が進んだことにより発達した[233]。その他の産業種に関して、2020年(令和2年)における産業別生産額の構成比を宮城県と比べると、建設業や水産業、電気・ガス・水道・廃棄物処理業等のウエイトが宮城県の平均より高く、卸・小売業、専門・科学技術、業務支援サービス業、情報通信業、教育等のウエイトが宮城県の平均より低くなっている[233]。建設業に関しては震災復興需要のため、需要が大幅に伸び、震災前(2010年)は市内総生産の6.28%ほどしか占めていなかった建設業は震災後の2017年(平成29年)には市内総生産の24.18%を占めるにまで至り、サービス業に続いて2番目に生産額が多い業種となった[234]。
2020年(令和2年)現在における市内総生産は5,691億円で、2010年(平成22年)現在における製造品出荷額は県内の約10%を占めているなど、およそ県内市町村のなかで第2位の経済規模を誇る[235][233]。しかし、石巻市の就業人口総数は1990年(平成2年)をピークに2019年(令和元年)現在においては約75%ほどに減少しており、産業種別にみても第一次産業・第二次産業・第三次産業のいずれについても就業者数が年々減少しているなど、依然として停滞傾向にある[236]。第四次産業革命やSociety5.0が進展する近年において、産業の衰退を阻止する手立てとして、石巻市は高付加価値化や生産性の向上を図りつつ全ての業種で知識集約型産業への転換を進めるとしている[237]。
水産業
水産業は石巻市の特色的な産業であり、世界三大漁場である金華山沖とリアス式海岸の沿岸部で盛んに行われている[3]。漁船漁業では、特定第3種漁港の石巻漁港を含めた市内44港を拠点に、主に沿岸漁業と沖合漁業が営まれており、サバ・カツオ・タラ・サンマなど200種類を超える水産物が水揚げされている[3][238]。養殖業ではカキ・ノリ・ワカメ・コンブ・ホタテ・銀鮭・ホヤといった多様な水産物が生産されている[3]。また、牡鹿地区の鮎川浜を中心に捕鯨も行われており、2019年(令和元年)7月には実に31年ぶりに商業捕鯨が行われた[3]。近年では他産地との競争激化から、石巻市水産振興会を中心に「金華ブランド」と呼ばれる水産物のブランド化を推進している[239]。
以下に市内の漁港を列挙する[240]。
農業・畜産業
石巻市は内陸部で北上川沿いに沖積平野が広がり、生産力の高い水田地帯を有しているため、ひとめぼれやササニシキを中心とした稲作が営まれているほか、1年を通じて温暖であるという気候を活かしてセリ、トマト、キュウリ、イチゴ、小ネギ、ホウレンソウなどの野菜やガーベラをはじめとする菊や鉢もの類などの花きに加え、肉用牛生産なども行なわれており多彩な複合経営農業が展開されている[241][242]。畜産業に関しては、宮城県の肉用牛振興の原動力となった宮城県基幹種雄牛茂洋号の郷として著名で、市内で飼養されている畜種には肉用牛を中心に乳用牛・豚・鶏がある[241]。
近年では農業・畜産業ともに、従事者の高齢化や担い手不足が顕著になっている[241][243]。特に稲作農業については、高齢農業者のリタイアや米消費量の低迷による米価の低下などにより農家数は年々減少し、耕作放棄地の増加が問題になっているほか、ニホンジカなどによる食害の対策や持続可能な農業生産体制の構築が急がれている[241][244][245][246]。
工業
石巻市は県北部の工業・物流の拠点として石巻工業港を擁しており、市内の工業も多くは石巻工業港付近の臨海工業地域が主力となっている[247]。石巻工業港付近では市内の製造業就業人口の約30%が従事しており、永く地域経済の中核を担ってきた経緯から2012年(平成24年)10月から国際拠点港湾「仙台塩釜港石巻港区」として整備された[247]。事業所数は2017年(平成29年)時点で302事業所となっており、震災前の2010年(平成22年)の410事業所と比べて26%減となっている[248]。従業者数は11,131人から9,019人と19%減少しているが、製造品出荷額は2017年(平成29年)時点で3,443億円と震災前の3,672億円ちかくまで回復している[248]。また、従業員一人当たりの製造品出荷額等[注 16]を見ると2017年(平成29年)時点で東北地方の人口10万人以上の計17都市の中で5番目と比較的高位に位置している[248]。
市の工業の一角を担う「製糸・パルプ業」は2020年(令和2年)のデータで、製造品出荷額等[注 16]が789.7億円で全国8位、粗付加価値額が全国5位となった[249]。市の「製糸・パルプ業」を支える日本製紙の石巻工場は機械パルプ・化学パルプ・古紙パルプなどの原料を使い、印刷・情報用紙・紙器原紙と様々な紙を生産しており、またバイオマスボイラーによる発電事業や[250]、木質パルプを原料としたセルロースナノファイバーの製造といった事業も行っている[251][252]。
2017年(平成29年)にはマルハニチロが門脇町にあった旧マルハニチロ石巻工場を郊外の須江に新築移転する形でマルハニチロ新石巻工場が操業開始した[253][254]。旧石巻工場は1946年(昭和21年)から営業していたが、震災により損害を受け、全3棟のうち2棟が全壊、残る1棟も骨組みがむき出しになるという被害を被った[253]。震災から5か月後には震災前の4分の1の規模で復旧し、再稼働したが、国の復興計画のなかで門脇町は堤防を整備することが決定し、石巻工場における事業継続が困難となったことで、須江への移転が決定し、新石巻工場が開設された。操業開始以降、生産量は徐々に増加している状況で、2025年現在においては家庭用冷凍食品のフライ・天ぷら、業務用冷凍食品の味付けたらこなどを製造している[254]。
商業・第三次産業
近年は、バイパス道路沿いの中里・蛇田・大街道などに、大型店を始めとする域外資本のロードサイド店舗が多数進出し、特に三陸沿岸道路の石巻河南ICを中心とした蛇田・あけぼの地区は県内では仙台市周辺地域に次ぐ商業集積を見せるようになり、2018年(平成30年)現在では登米市や大崎市、気仙沼市の一部までも含む県東部5市5町[注 17]の広範囲を商圏としており、商圏人口は541,733人、吸引人口は213,895人を誇る[255][256]。
小売業事業所数は2016年(平成28年)時点で1,005事業所となっており、震災前の2007年(平成19年)時点の2,069事業所からほぼ半減した状態になっている[257]。小売業従業者数も12,170人から8,198人と約3分の1になっているが、小売業の年間商品販売額は蛇田地区にオープンした影響もあって2016年(平成28年)時点で1,814億円と、震災前の1,848億円ちかくまで回復している[257]。
近年の蛇田地区の商業集積により、従来の中心市街地では小売店舗数・従業員数・年間商品販売額・売り場面積の市域に対するシェア率がいずれも減少傾向にある[258]。現に石巻駅前の百貨店さくら野東北は2008年(平成20年)1月、撤退を決め、同年4月27日に閉店した。また、石巻駅の北(駅裏側)を貫通する市道の中里バイパス沿いで営業していたイトーヨーカドー石巻中里店が2009年(平成21年)8月、翌年1月の閉店を決め、27年の歴史に幕を降ろすこととなった[259][注 18]。こういった動きを受けて石巻市は中心市街地の活性化を政策として推進するとしている[260]。
- 蛇田におけるロードサイド。
- 中里バイパスのロードサイド。
商店街
- 中心市街地
主な商業施設
- イオンモール石巻
- あいのや中里店
- ヨークベニマル石巻中里店
観光業
2018年(平成30年)の石巻市年間観光客数は約333.6万人となっており、震災前(2010年)の259.0万人から28.8%の増加となった[264]。このうち、いしのまき元気いちばを訪問した人は105.1万人となっており、中心市街地を訪れた観光客(165.7万人)の実に72.6%を占める[264]。ほかにも震災後にかわまち交流センターや旧観慶丸商店などといった新たな観光施設が整備され、中心市街地を訪れる人の数は増加傾向にある[264]。新たな観光施設の整備や観光施設の復旧、新規イベントの開催などもあり、全体の入込数は震災前よりか増加傾向が見られる[265]。しかし、石巻川開き祭りや牡鹿鯨まつり、ものうふれあい祭りといった従前のイベントは規模縮小に伴い、いずれも入込数が減少傾向にある[265]。
石巻市での観光は一般的に、日中のイベントに参加するだけの「通過型」のものが多いとされる[266]。これは温泉や宿泊施設が少ないことや朝・夜のイベントが少ないことが理由として挙げられており、既存の観光資源や震災伝承を活かした「滞在型」への転換が政策として模索されている[267]。具体的にはテーマ性を帯びた観光ルートの提供、朝夕の魅力的なコンテンツの開発、大型客船誘致やインバウンド客の呼び込み、多様な手法を用いた観光誘客PRが推進されている[267]。近年では観光誘客PRの一環として、石巻市をモデルにしたファンタジー世界を冒険する石巻市地方創生RPG「キズナファンタジア 海辺の国の大聖典」が開発された[268]。
石巻市の観光キャッチフレーズは「海とマンガと食のまち」であり、近年では「海」「萬画(マンガ)」「食」を活用した観光が展開されている[269]。この中でも特に「萬画」による観光開発は平成期になってから進められたもので比較的新しい要素であるといえる。石巻における「萬画」を活かしたまちづくりは1995年(平成7年)に漫画家石ノ森章太郎が石巻市長と会談した際に「マンガを活かしたまちづくり」を提案したことから始まる[141]。ここから、中瀬に漫画ミュージアムを建設する話が持ち上がり、石ノ森萬画館を建設する構想である「マンガランド構想」が浮上、2001年(平成13年)7月23日に石ノ森萬画館がオープンし、以降、石巻市は「萬画のまち」として萬画文化を発信している[141]。
メディア

新聞
ラジオ
- NHK仙台放送局石巻支局[273]
- 石巻コミュニティ放送(ラジオ石巻)[274]
教育

2025年(令和7年)9月現在、石巻市内には以下の学校が存在する。なお、県立学校は宮城県公式サイトの「学校・施設一覧」に、市立学校は石巻市例規「石巻市立学校設置条例」(2025年4月1日施行)に、私立学校は各種関連サイトに則る[275][276]。
大学
- 私立
高等学校
- 県立
- 市立
中学校
- 市立
- 石巻市立飯野川中学校
- 石巻市立河北中学校
- 石巻市立雄勝中学校
- 石巻市立河南東中学校
- 石巻市立河南西中学校
- 石巻市立桃生中学校
- 石巻市立北上中学校
- 石巻市立牡鹿中学校
小学校
- 市立
- 石巻市立石巻小学校
- 石巻市立住吉小学校
- 石巻市立開北小学校
- 石巻市立中里小学校
- 石巻市立釜小学校
- 石巻市立大街道小学校
- 石巻市立山下小学校
- 石巻市立貞山小学校
- 石巻市立湊小学校
- 石巻市立鹿妻小学校
- 石巻市立蛇田小学校
- 石巻市立向陽小学校
- 石巻市立渡波小学校
- 石巻市立万石浦小学校
- 石巻市立稲井小学校
- 石巻市立飯野川小学校
- 石巻市立大谷地小学校
- 石巻市立二俣小学校
- 石巻市立雄勝小学校
- 石巻市立広渕小学校
- 石巻市立須江小学校
- 石巻市立北村小学校
- 石巻市立前谷地小学校
- 石巻市立和渕小学校
- 石巻市立鹿又小学校
- 石巻市立桃生小学校
- 石巻市立北上小学校
- 石巻市立鮎川小学校
- 石巻市立大原小学校
- 石巻市立寄磯小学校
特別支援学校
- 県立
幼稚園
- 公立
- 石巻市立河北幼稚園
- 石巻市立桃生幼稚園
- 私立
- 石巻カトリック幼稚園
- 石巻みづほ幼稚園
- 石巻みづほ第二幼稚園
- 穀町幼稚園
- 長浜幼稚園
- ひばり幼稚園
- 法山寺幼稚園
交通
鉄道


市内には以下の通り、3の路線が走っており、13の旅客駅が存在する[166]。駅の利用者数は震災前の2010年(平成22年)にいたるまで減少傾向が続き、東日本大震災により大きく落ち込んだが、現在は2019年(令和元年)現在においては横ばいに推移している[166]。
中心となる駅:石巻駅
- ■仙石線(仙石東北ライン):- 石巻あゆみ野駅[注 19] - 蛇田駅 - 陸前山下駅 - 石巻駅
- ■石巻線:- 前谷地駅 - 佳景山駅 - 鹿又駅 - 曽波神駅 - 石巻駅 - 陸前稲井駅 - 渡波駅 - 万石浦駅 - 沢田駅
- ■気仙沼線:- 前谷地駅 - 和渕駅
- 日本貨物鉄道(JR貨物)
鉄道敷設の経緯
石巻では明治期から度々鉄道敷設計画が浮上していた[278]。石巻に官営鉄道を通す計画が最初に示されたのは鉄道敷設法(明治25年6月21日法律第4号)における奥羽線の第2項「宮城県下仙台ヨリ山形県下天童若ハ宮城県下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ経テ山形県下船形町ニ至ル鉄道」と規定された条文である[279]。しかし、実際に着工が宣言されることはなく、鉄道が盛んに敷設された日清戦争後になっても実現不可能とされ免許が交付されることはなかった[279]。官営鉄道敷設がなかなか実現されないのを受けて、1894年(明治27年)6月に有志216人が逓信大臣あてに「石巻鉄道株式会社及鉄道敷設申請書」を提出し、1896年(明治29年)8月4日付で仮免許が交付された[279][280]。申請書では路線は石巻町を起点に鹿又村、涌谷町、小牛田村、古川町、岩出山町を経て温泉村字鍛冶谷沢に至る63.4 kmであった[280]。1997年(明治30年)3月18日には逓信大臣あてに設立申請を行い、同年12月30日に敷設許可が下りたものの、日清戦争後の恐慌により、会社は倒産し、鉄道の敷設はなされなかった[281]。その後も、石巻を起点に志津川、気仙沼、釜石、山田、宮古を結ぶ三陸鉄道敷設計画が浮上したり、石巻 - 小牛田間27.8 kmを結ぶ石巻鉄道(2代目)[注 20]の敷設が計画されたりしたものの、実現されることはなかった[281][282]。
数々の鉄道敷設計画が失敗するなかで、1912年(大正元年)10月28日の仙北軽便鉄道(小牛田駅 - 石巻駅)が開通し、初めて石巻の地に鉄道が走った[110]。その発端は石巻市史編さん委員会によれば1910年(明治43年)施行の軽便鉄道法によるところが大きいとしている[283]。軽便鉄道法は地域格差解消の手段として成立した法律で、これにより免許取得が簡略化され、免許取得条件が緩和されることとなった[283]。仙北軽便鉄道は軽便鉄道法のもと、石巻線(小牛田 - 石巻間)、石越線(登米 - 築館間)の2路線を立案し、東北本線と接続する小牛田駅と北上川舟運により物資が集積する石巻を結び、石巻と小牛田を中心とした一大経済圏の構築を目指した[284]。仙北軽便鉄道石巻線の敷設にあたって、石巻町から町内の鉄道路線と駅敷地の一切が寄付され、遠田・桃生・牡鹿郡全体から営業開始後の還付を条件に現金1万円が寄付された[285]。かくして、仙北軽便鉄道石巻線は1912年(大正元年)10月28日に開通し、軽便鉄道が走ることとなった[286]。ただし、1917年(大正6年)5月15日の日本郵船荻浜港寄港の廃止や狭軌であることに起因する様々な問題から仙北軽便鉄道はすぐに経営難になり、1919年(大正8年)に国有化され、石巻線が誕生した[287][288]。
その後、1915年(大正4年)4月には牡鹿人車軌道[注 21]が湊 - 渡波間で営業を開始、金華山軌道が1926年(大正15年)3月30日に湊 - 女川間で運転を開始し、1928年(昭和3年)11月21日には宮城電気鉄道(現在の仙石線)が仙台駅 - 石巻駅間で開通し電車が走るようになるなど、まずます交通の便は改善されていった[155][289][291]。なお、牡鹿人車軌道は牡鹿軌道と名を変えた後に金華山軌道に吸収され消滅、金華山軌道は1939年(昭和14年)の石巻線女川駅延伸の影響で消滅、宮城電気鉄道は1944年(昭和19年)5月1日、戦時下の私設鉄道統制により、国有化され、仙石線となり消滅した[292][293][294]。
バス
BRT
BRTは2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災により被災したJR気仙沼線柳津駅 - 気仙沼駅間に導入されていた気仙沼線BRTが前谷地駅まで延伸したのを機にはじめて市内で運行された[295][167]。
路線バス

市内の路線バスは2025年(令和7年)現在で以下の通りとなっている[296]。かつては河北地区住民バス飯野川第一コース・飯野川第二コース・二俣第一コース・二俣第二コース・大谷地第一コース・大谷地第二コース・大川コースが存在していたが、バス輸送量が1日当たり3人前後という低い利用率となっていたことから、2025年(令和7年)4月に廃止された[297][298][299]。
高速バス
タクシー
道路
石巻地方では古くから多賀城(もしくは桃生城・牡鹿柵)方面より石巻へ至る海岸沿いの道を街道として利用していた[300]。この海道は中世になると東海道(あずまかいどう)として整備され、商業交易の道として賑わい、一時的ではあったものの宿駅もおかれた[300]。江戸時代には主要幹線として石巻と仙台城下を結ぶ石巻道(石巻街道)と気仙道(東浜街道)、一関街道が整備された[301][302]。石巻道は米の集積地たる石巻と仙台藩の藩都たる仙台を結ぶ「商いの道」としての役割のほか、同中に塩竈神社や景勝地松島が立地し、また金華山参詣への経路(金華山道)として利用されるなど往来の激しい道であった[301][303][304][302][305]。また気仙道は仙台城下から小野に至るまで石巻道と重複し、小野から広渕・和渕・神取・寺崎を過ぎ柳津で一関街道と交差した後、折立にて太平洋沖に出て浜沿いに本吉などを経て気仙沼に至る街道であった[302]。一関街道は石巻から飯野川・柳津・登米を経て一関に至る街道であった[302]。このほかに古川宿から小牛田・涌谷・広渕・蛇田を経て石巻に至る石巻別街道が存在していた[306][307]。
現在では三陸縦貫自動車道を中心に南北方面は国道45号、東西方向は国道108号・国道398号を中心とした道路網が形成され、これを軸に宮城県道が整備されている[308]。近年では狭い道路や急カーブが多く問題視されていた国道108号を高規格道路(石巻新庄道路)とする計画があり、石巻赤十字病院・石巻市夜間救急センターなどへの救急搬送路や石巻港から内陸部への物資の輸送路としての利用が期待されている[308]。また、石巻市では2019年(令和元年)4月1日時点で国道・宮城県道のほかに全5,283路線、総延長約2,135 kmの市道が存在している[309]。
高速道路
国道
県道
通り
- アイトピア通り - 「出会い」「愛」と石巻市の頭文字である「アイ」に「ユートピア」をかけて、道路拡幅をきっかけとして1987年(昭和62年)5月に「中央銀座・大町通り」から改称された[310]。
- 旭町通り[311]
- 鋳銭場通り[311]
- 永厳寺通り[311]
- 駅前大通り[311]
- 大町通り[311]
- 久円寺通り[311]
- 穀町通り[311]
- 寿町通り[311]
- 坂下通り[311]
- 新田通り[311]
- 税務署通り[311]
- 立町通り[311]
- 中央一大通り - 2016年(平成28年)10月に道路拡張を機に「市役所通り」から改称[312]。
- 橋通り[311]
- ピッコラパーク通り[311]
- 文化通り[311]
- 本町通り[311]
- 小野寺横丁[311]
- 住吉新丁[311]
- 松川横丁[311]
- 広小路[311]
- アイトピア通り
道の駅
水運
航路
東日本大震災の被害
2011年(平成23年)3月11日午後2時46分、牡鹿半島の東南東130 km、深さ24 kmを震源とするマグニチュード9.0の大規模地震が発生した[316]。内陸部ではブロック塀などの倒壊の被害が発生し、各地で地割れや地盤沈下、液状化現象なども見られた[316]。停電などで情報を得ることが困難で、被害状況の把握もままならぬ中、沿岸全域に巨大津波が襲来し沿岸地域は壊滅し、平野部の約30%が浸水し、被災家屋は全住家の約76%[注 24]が被害を受けた[316]。病院や総合支所といった公共施設も甚大な被害を受け、ライフラインが停止し都市機能は完全に消失した[316]。最終的に地震や津波などの被害から最大で市内の50,758人が避難することとなり、259の避難所が開設された[316]。避難所には公共施設のほか、宗教施設や福祉施設、パチンコ店、スーパーマーケット、マンション、銀行、医院などといった指定避難場所以外の施設も含まれている[317]。
2021年(令和3年)2月末時点では、市内で3,187名が東北地方太平洋沖地震を原因として死亡し、415名が行方不明となっている[318]。犠牲者・行方不明者数は全国最大であり、死者の9割は溺死であった[319]。市内で観測された最大震度は桃生地区の6強、最大津波高は牡鹿地区の8.6 m以上[注 25]、最大浸水高は牡鹿地域の17.5 m、最大地盤沈下は牡鹿地域の沈降1.2 mであった[316][321]。
またハード面での被害のほか、震災によって人口減少問題も劇的に進行した[322]。2010年(平成22年)10月実施の国勢調査による人口と2025年(令和7年)7月現在の推計人口を比較すると、人口は160,826人から129,954人に減少しており、減少幅は3万人以上となっている[323]。
- 被災後の石巻市街地。
- 被災前の石巻市街地。
- 壊滅した住宅街
生活への影響
地震の影響で即座に市内の全戸・全事業所が停電した[324]。また、沿岸部では津波により変電所や電柱などといった施設が流された[324]。そのため、内陸部や山の手を除いて電力の復旧には多くの時間を要した[324]。水道についても地震の影響で即座に市内各地において断水状態となり、また津波により水道施設の一部が破壊されたことにより電力よりか復旧に時間を要したとされる[324]。復旧は蛇田地区や桃生地区、河北地区の内陸部から進められ、被害が大きく壊滅状態となった地域を除けば2011年(平成23年)6月上旬には断水状態が解消され、同年7月末に水道管の修繕が完了した[324]。また、電話に関して、固定電話は市内の多くの事業所が津波による被害を受け、多くの地域で不通となっていたが、2011年(平成23年)5月上旬には復旧し、携帯電話は停電や事業所の被害により固定電話と同様に震災直後は不通となっていたが、移動式基地局の展開により同年3月下旬から復旧していった[325]。都市ガスは製造所と会社が津波による直撃を受け、市内全戸で供給停止となったが、2011年(平成23年)4月10日から事業者が復旧を開始し、同年5月中旬には被害の大きかった地域を除いてガスの復旧が完了した[325]。
鉄道やフェリー、バスといった公共交通機関も甚大な被害を被った[326]。JR東日本の石巻線は約70箇所、仙石線は約390箇所の被害があり、市内の鉄道はすべて運休した[326]。市内で一番最初に運行が再開したのは2011年(平成23年)4月17日の石巻線小牛田駅 - 前谷地駅間の区間で全線復旧は石巻線が2015年(平成27年)3月21日、仙石線が同年5月30日であった[326]。
市内の道路は道路延長2033.7 kmの内、583 kmが橋梁は15m以上のものが91橋中60橋が被害を受けた[327]。市管理の道路は602箇所299 kmが被害を受け、被害金額は約118億円に上り、市管理の橋梁は26箇所が被害を受け、被害金額は約47億円に上った[327]。
- 冠水した国道398号(湊町付近)
産業の被害
市内の重要な産業の一つである水産業はとくに大きなダメージを受け、市内における全漁港44港が被災し、被害額は約1,673億円にのぼる損害を被った[328]。このほか、損失した漁船は2,762隻で、震災前の全隻数3,230隻のうち、85.5%の漁船が失われ、多数の防波堤の破損や流失が報告されたほか、定置網や養殖施設はほぼ全壊状態となった[329][328]。一部の漁港では石巻市水産物地方卸売市場は石巻・牡鹿両売場が全壊し、使用不能となった[329]。また、水産業は直接的な被害のほかに風評被害を強く受けた[330][331]。地震により福島県の福島第一原子力発電所で原子力事故が発生し、放射性物質や放射線が施設外へと漏出した[332]。石巻市で検知された放射線量は健康に問題がないレベルであったが、一部の国が宮城県産海産物の輸入禁止にする措置をとったため、海産物の輸出が滞り一部を廃棄せざるを得ない状況となった[332]。また、風評被害を受けて国内での需要も減少しており、海産物が国の放射性セシウムの含有基準値(100 Bq/kg)[注 26]を下回っていても買わない量販店もあったという報告が石巻放射能対策委員会で挙がっている[328][330]。こうした背景もあり現在、石巻魚市場では東北大学生活環境早期復旧技術研究センター協力のもと導入した連続個別非破壊式放射能汚染検査装置による検査やNaIシンチレーション検出器を用いた検査など多段階での検査を実施し安産性を担保している[333][334]。
商工業は門脇・湊・渡波といったエリアをはじめ、沿岸部の工場・商店が津波による被害を受け、また、内陸部であっても地震による被害を受けた[329]。門脇町にあったマルハニチロ石巻工場は全3棟のうち2棟が全壊、残る1棟も骨組みがむき出しになるという被害を被り、5か月後に再稼働するも規模を4分の1に縮小するといった措置が取られた[253]。
農林業は津波の冠水などにより被害を受け、市内の水田1,772ha(総水田面積の約20%)が冠水した[335]。震災で被害を被った水田・園芸設備は2022年(令和3年)現在までに概ね復旧が完了し、2014年(平成26年)から米を中心に農業産出額も回復傾向となっている[242]。
医療の被害

震災前、石巻赤十字病院とともに市内医療の中核を担っていた石巻市立病院は津波により1階と夜間急患センターを喪失し、その機能を失った[195][329]。石巻市立病院の立地していた南浜地区は津波による甚大な受け壊滅した地域であり、石巻市立病院も被害を免れることはできなかった[336]。一時、職員・患者ら約450名が孤立したが、隣接する文化センターの駐車場を臨時ヘリポートとして災害派遣医療チームによる救助活動が2011年(平成23年)3月13日に開始され、患者らは南境の運動公園へと移送された[337]。その他、雄勝病院では屋上まで津波が到達し施設は全壊、多くの犠牲者を出した[336]。
また、赤十字病院では震災直後から搬送されてくる患者を受け入れ続けていたが、次第に病院の避難所化が進み帰宅困難患者・帰宅不能患者が増え、院内に溢れかえすようになった[338][339]。災害マニュアルには退院支援に関する記述がなかったため、急遽、退院支援係と退院支援担当者を割り当てて対処することとなったが、患者の中には名前がいえない者や寝たきりの者がいて十分な聞き取り調査をすることができなかった[338]。3月12日、赤十字病院は病院へ避難している避難者ら(帰宅困難患者・帰宅不能患者も含む)について石巻市と相談し、避難者らを市内桃生地区へバスでピストン輸送することが決定し、病院の避難所化はひとまず落ち着いた[339]。
二次災害
震災当日の市内は非常に寒冷で市内の多くの地域で降雪していた[340]。そのため、救助の際に視界が遮られたり、低体温症により被災者が死亡したりすることがあった[340][341]。
津波によって壊滅した南浜・門脇地域では3月11日午後5時ごろに門脇小学校前の家屋や津波により浸水した自家用車を火元とする津波火災が発生し、門脇小学校を含む一帯56,100 m2が焼けた[342]。門脇小学校に避難していた人々はこの津波火災から逃れるために、校舎西側の廊下にあった手洗い場の窓の外から日和山にいた消防団員らと連携して日和山へと避難し、難を逃れた[343]。なお、火災発生当初は日和山への延焼が懸念されていたが、高台の崖を利用した消火活動により、日和山の住宅地への延焼を食い止めることができた[344]。門脇小学校付近以外にも市内では門脇町三丁目の冷蔵工場や蛇田地区の住宅5棟においても震災を原因とする火災が発生した[345][346]。
デマの拡散
震災直後、石巻市内では「中国人の窃盗団が横行し、略奪が起き、女性は乱暴され、警察は来ない無法状態」という根拠のないデマが拡散した[347][348]。デマは治安悪化に関するものだけではなく復興に関するものや健康に関するものなど多岐にわたった[349]。ライフラインが途絶え孤立していた雄勝地区では、震災からおよそ1週間後に「仮設住宅が近くに造られず、置き去りにされる」「電気の復旧は10年後らしい」などという根拠のない情報が流れ、被災者らは不安を募らせた[349]。また、一部の市民には福島第一原発事故に関する内容で「明日もし雨が降ったら絶対雨に当たるな。確実に被曝するから」「政府は混乱を避けまだ公表していないそうです」といったメールが届いた[349]。メールやインターネットにおけるデマの拡散を受けて石巻市災害対策本部は新聞などの報道以外の情報は信用しないよう市民に広報した[350]。
観光
2018年(平成30年)の石巻市観光客数は約333.6万人となっており、震災前(2010年)の259.0万人から28.8%の増加となった[264]。このうち、いしのまき元気いちばを訪問した人は105.1万人となっており、中心市街地を訪れた観光客(165.7万人)の実に72.6%を占める[264]。ほかにも震災後にかわまち交流センターや旧観慶丸商店などといった新たな観光施設が整備され、中心市街地を訪れる人の数は増加傾向にある[264]。
名所・旧跡
- 石井閘門 - 国の重要文化財。明治13年竣工。北上運河と旧北上川の間に建造された日本最古の煉瓦閘門である。
- 石巻ハリストス正教会聖使徒イオアン会堂 - 現存するものとしては日本最古の木造教会建築[351]。
- 月浦 - サン・ファン・バウティスタ号の建造地と比定されている[198][352]。
- 沼津貝塚
- 布施辰治顕彰碑
- 鹿島御児神社(日和山神社) - 日和山にそびえたつ神社[198]。
- 黄金山神社 - 鮎川浜金華山に所在[198]。
- 住吉神社 - 松尾芭蕉・河合曾良がおくのほそ道で訪れた住吉公園が所在[148]。
- 釣石神社 - 「落ちそうで落ちない石」があり、合格祈願の神社として著名[198][352]。
- 日高見神社[198]
- 零羊崎神社(牧山神社)[198]
- 永巌寺[352]
- 香積寺 - 開山は1342年とされ、680年余りの歴史を有する古刹である。
- 普誓寺 - 川村重吉の墓がある[198]。
- 石巻ハリストス正教会の旧会堂
- 鹿島御児神社
- 香積寺
観光スポット
- 自然・海山
- 牡鹿半島[198]
- 神割崎(神割崎自然公園)[353][198]
- 北上川 - 北上地区のヨシ原が著名[198]。
- 金華山[198]
- 硯上山[198]
- 県立自然公園旭山[198]
- 上品山[198]
- 田代島 - 「ネコの島」として著名[198]。
- 八景島 - 名振湾に浮かぶ島。
- 日和山[198]
- 牧山[198]
- 万石浦[198]
- 北上川のヨシ原
- 上品山
- 八景島
- 海水浴場
- 網地白浜海水浴場
- 十八成浜海水浴場
- 公園
- 石巻市総合運動公園[198]
- 雄勝ローズファクトリーガーデン[352]
- おしか御番所公園[353][198]
- 牡鹿清崎運動公園[202]
- 牡鹿交流センター[203]
- 追波川河川運動公園[352]
- 住吉公園 - 石巻市の市名の由来の一つとされる「巻石」が所在[198]。
- にっこりサンパーク[352]
- 日和山公園 - 市街地を一望できる[198]。
- 牧山市民の森・牧山あやめ園[352]
- 南三陸金華山国定公園[198]
- 桃生植立山公園[352]
- おしか御番所公園
- 日和山公園
- 牧山あやめ園
- 家族向け娯楽施設
- おしか家族村オートキャンプ場[352]
- 河南水辺の楽校公園[355]
- マンガロード[198]
- MORIUMIUS LUSAIL - 2002年(平成14年)に閉校した桑浜小学校を改築した体験型宿泊施設[356]。
- 遊楽館 - 河南室内プールなどが入居[207]。
- マンガロード
- 地域振興施設
- かわまちオープンパーク
- 石巻市北上観光物産交流センター[198]
- ホエールタウンおしか[198]
- 桃生インフォメーションプラザ[352]
- かわまちオープンパーク
- ホエールタウンおしか
- 文化施設
- 石ノ森萬画館[352]
- 雄勝硯伝統産業会館[352]
- 北上川・運河交流館(隈研吾設計)[352]
- 旧観慶丸商店[352]
- 斎藤氏庭園 - 前谷地の資産家である斎藤家の旧庭園[352]。
- 宝ヶ峯縄文記念館[352]。
- マルホンまきあーとテラス - 石巻市博物館と石巻市芸術文化センターからなる[352]。
- 宮城県慶長使節船ミュージアム(サンファン館・サンファンパーク) - サン・ファン・バウティスタ号の復元船が係留されている[352]。
- 石ノ森萬画館
- 雄勝硯伝統産業会館
- 温泉
- 震災伝承施設
- 石巻市震災遺構 大川小学校[352]
- 石巻市震災遺構 門脇小学校[198]
- 石巻南浜津波復興祈念公園 - 東日本大震災で壊滅した門脇・南浜地区に立地[198]。
- MEET門脇[198]
- みやぎ東日本大震災津波伝承館[198]
- その他観光スポット
文化
祭事・イベント
- マンガッタンお正月(本庁・1月)[357]
- 名振のおめつき(雄勝・1月)
- マンガッタン感謝祭(本庁・3月)[358]
- 河南鹿嶋ばやし山車まつり(河南・4月)[359]
- サン・ファン祭り(本庁・5月)[359]
- 春のマンガッタン祭り(本庁・5月)[359]
- おがつ海鮮まつり夏(雄勝・6月)[360]
- おがつかきまつり(雄勝・7月)[361]
- 石巻川開き祭り(本庁・8月)[362]
- トリコローレ音楽祭in石巻(本庁・8月)[362]
- サマーフェスタ・イン・かほく(河北・8月)[362]
- おがつ夏祭り(雄勝・8月)[363]
- 和渕夏祭り(河南・8月)[362]
- 牡鹿鯨まつり(牡鹿・8月)[362]
- ツール・ド・東北(沿岸部・9月)[362]
- ものうふれあい祭 はねこ踊りフェスティバルin桃生(桃生・9月)
- おがつ海鮮まつり秋(雄勝・10月)[364]
- いしのまき大漁まつり(本庁・10月)[365]
- かなんまつり(河南・10月)[365]
- 北上にっこりまつり(北上・10月)[365]
- マンガッタン文化祭(本庁・11月)[365]
- フェスティバル・イン・かほく(河北・11月)[366]。
- おがつ歳の市(雄勝・12月)[367]
- 牡鹿鯨まつり
名産・特産
- 石巻おでん - 震災を契機に誕生[368][352]。金華サバ出汁を使用[368]。
- 石巻焼きそば - 石巻市のB級グルメとして著名[266]。
- いわし[352]
- 雄勝硯
- オリーブ - 北限のオリーブとしてブランド化が進められている[369][370]。
- 牡蠣 - 本庁や河北、雄勝、牡鹿といった沿岸地区で盛んに産出されている[371][372]。
- 河北せり[371]
- 金華サバ[373]
- 金華カツオ[373]
- 銀鮭 - 「金華ぎん」や「伊達のぎん」としてブランド化されている[373][374]。
- 鯨肉[375][266]
- 米 - 内陸部で盛んに生産されている名産品[376]。ひとめぼれやササニシキなどが栽培されている[241]。
- 笹かまぼこ[377]
- ササニシキアイス - 河南地区の地場産品。全国食品コンクール農林水産省局長賞受賞[376]。
- サバだしラーメン - 河北地区の地場産品[371][378]。2011年(平成23年)11月から飯野川商店街で販売開始[379]。
- タラコ - かつては日本一の生産量を誇っていたが、2000年(平成12年)を過ぎると価格の高騰などで塩たらこ加工工場が次々と倒産し、産業としては衰退した[380]。
- 茶 - 伊達政宗が産業振興のために河北・桃生の両地区で茶の栽培を奨励したことが由来とされている[374]。
- トマト - 県内第一の生産量を誇る[352]。海洋深層水を使用して栽培した「こだわりくん」などが著名[381]。
- 日本酒 - 墨廼江酒造の「墨廼江」や平孝酒造の「日高見」などの銘柄が著名[382][377]。
- パプリカ[352]
- 深谷からし巻 - 河南地区の地場産品[376]。
- べっこうしじみ - 北上川の河口付近でとれる[370][369]。
- ホタテ - 雄勝地区や北上地区で産出されている[372][370]。
- ホヤ - 牡鹿半島以北で3年から4年の歳月をかけて養殖[375][377][373]。
- 桃生牛[383]
- 桃生茶 - 桃生地区の地場産品[384][383]。
- わかめ - 十三浜わかめなどが有名[369][370]。
- 石巻焼きそば
- サバだしラーメン
伝統芸能
音楽・芸術

アマチュアの楽団として石巻市民交響楽団がある。石巻市民交響楽団は1956年(昭和31年)に石巻市民管弦楽団として発足した組織を前身として、1976年(昭和51年)に発足した。ファミリーコンサートや定期演奏会を開催している[385]。
石巻市は、宮城県登米郡石森町出身の漫画家石ノ森章太郎の協力を得て「石巻マンガランド基本構想」を策定し、「萬画」を活かした創造性ある街造りに取り組んでいる。その一環として、石ノ森萬画館の最寄り駅である石巻駅、および石ノ森萬画館までの道「マンガロード」では数々の石ノ森章太郎作品のキャラクターを見ることができる。
スポーツ
出身関連著名人
脚注
注釈
- ↑ かつては広域石巻圏にあたる地域を管轄した県の出先機関である宮城県桃生牡鹿地方事務所や宮城県石巻地方県事務所の名称にちなんで、桃生牡鹿地方や石巻地方とも呼称された。
- ↑ 「地区」ではなく「地域」とする場合もある。また、文献によっては本庁地区を石巻地区とするものもある[40]。
- ↑ 山内首藤氏は後に葛西氏に攻め滅ぼされたため、桃生郡北方は葛西氏領となる[59]。長江氏領を除いたそのほかの地域も戦国時代末期までには葛西氏の支配下になった[59]。
- ↑ 石巻市雄勝町雄勝の呉壺を建造地とする説もある[78]。
- ↑ ただし、湊村のうち字井内、字磯田は稲井村大字井内となった[95][96]。
- ↑ 東北線は小牛田を経由するか石巻を経由するかで割れたが、石巻においては海上輸送の利便性が重視され、結局東北線は小牛田経由になったといういきさつがある[107]。
- ↑ 衣料品と食糧の交換が多かった[127]。
- ↑ 1946年7月から1947年3月までの期間は暫定市長。
- ↑ 支店は飯野川支店・中津山支店(飯野川支店内で営業)・穀町支店(石巻支店内で営業)・石巻支店・湊支店(渡波支店内と同一店舗)・渡波支店(湊支店と同一店舗)・鮎川支店・新中里支店(石巻支店内で営業)・蛇田支店・のぞみ野支店の計10支店[208]。
- ↑ 支店は石巻支店・中里支店・雄勝支店(中里支店内で営業)の計3支店[211]。
- ↑ 本店と湊支店・あゆみ野支店・向陽支店・開北支店・山下支店(大街道支店内で営業)・鹿妻支店・大街道支店の7支店と中里5丁目出張所・イオンモール石巻出張所・イオンスーパーセンター石巻東店出張所・石巻市役所出張所・山下出張所の5出張所[212]。
- ↑ 本店と中里支店・飯野川支店・前谷地支店・湊支店・蛇田支店・大街道支店・渡波支店の7支店[215]。
- ↑ 本店と蛇田支店・鹿妻支店・大谷地支店・桃生中央支店・河南支店の5支店[216]
- ↑ 宮城支店・石巻支店の2支店と雄勝町雄勝湾出張店・表浜出張店・網地島出張店の3出張店。
- ↑ 河北地区・雄勝地区・河南地区・桃生地区・北上地区・牡鹿地区の6地区と本庁地区のうち石巻・蛇田・荻浜・渡波・稲井の5地区。
- 1 2 製造品出荷額・加工賃収入額・修理料収入額・製造工程から出たくず及び廃物出荷額・その他出荷額の合計[248]。
- ↑ 内訳は第一次商圏が女川町、東松島市、南三陸町、涌谷町、第二次商圏が登米市、美里町、松島町、第三次商圏が気仙沼市、大崎市となっている[255]。
- ↑ イトーヨーカドー石巻中里店跡地には、ヨークタウン石巻中里が2011年11月11日開店した。
- ↑ 仙石東北ラインの快速列車は朝の1往復のみ停車する。
- ↑ 石巻と鍛冶谷沢を結ぶことを想定していた石巻鉄道とは異なる[282]。この石巻鉄道は石巻駅・中山駅・涌谷駅・小牛田駅の4駅を設置することを計画していた[282]。
- ↑ 1920年(大正9年)からは動力源をガソリンに変えており、牡鹿軌道に社名変更を実施した[289]。また、1924年(大正13年)5月には金華山軌道と合併し、消滅した[290]。
- 1 2 3 予約制のデマンド型バス路線である[296]。
- ↑ 一部の停留所はデマンド型[296]。
- ↑ うち約35%に当たる20,044棟が全壊[316]。
- ↑ 津波によりデータを取得できない期間があったため後続の波で高くなった可能性がある[320]。
- ↑ なお、震災前は放射性セシウムの含有基準量が500Bq/kgであったが、震災を受けて2012年(平成24年)春、その5分の1にあたる100 Bq/kgに引き下げられた[330]。また、この基準値の引き下げは世界基準(例えば欧州連合では基準値が1,250 Bq/kgになっている)とはかけ離れており、科学的根拠に基づいた対応を求めるという声も一部では挙がっている[330]。
出典
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合併関係
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- 石巻市 編『石巻市東日本大震災復興記録誌』石巻市、2024年3月。
- 佐渡 哲、中道 崇、三浦 恵美、秋田谷 美佑、秋葉 麻里、吉名 美恵『石巻赤十字病院 東日本大震災の記録』石巻赤十字病院、2025年。
その他
- 新月通正 編『浜街道を行く: いわき・陸前浜・陸中海岸』旭ソノラマ、1979年8月。doi:10.11501/9570050。
- 佐藤勝雄 編『石巻の大正・昭和 :ふる里と歩んだ石巻日日新聞の75年』石巻日日新聞社、1988年8月。
- 渡辺信夫 編『みちのく街道史』河出書房新社、1990年3月。
- 文化庁 編『石ノ森萬画館を中核とした石巻中心市街地の文化観光推進拠点計画』文化庁、2023年。
関連項目
- 石巻 - 曖昧さ回避。
- 石巻 (石巻市)
- 石巻市の行政区域の変遷
- 石巻市の町・字
- 石巻市の町・字一覧
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- 地図 - Google マップ
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