熊本地震(くまもとじしん)は、1889年(明治22年)7月28日23時45分に発生した、熊本県熊本地方を震源とするM6.3の直下型地震。
この地震では、熊本市周辺で被害が発生し、20人が死亡、数百棟が全半壊し、熊本城も大きな被害を受けた[2]。
本地震は金峰山南東麓附近を震源としたことから、金峰山地震(きんぼうざんじしん)とも言われており、また2016年(平成28年)4月に同一地域で発生した同名の地震と区別するため、明治熊本地震[3]とも呼ばれる。
意義
この地震は地震学会が1880年に日本で発足してからはじめて都市を襲ったものとして調査が行われ、また、(中略)ドイツのポツダムの重力計に地震波が記録され、遠い地震の観測のきっかけとなったといわれています。(中略、同サイト)に掲げた写真は、地震の被害を写したものとしては、おそらくわが国でもっとも古いものと思われます
と書いている。
庶民の記録
『防災くまもと資料 恐怖におののいた明治22年の大地震』[4]によると、五野保萬(ごのやすま)は、日記で次のように記している。
7月28日。夜大地震の事。さて、夜11時30分に地震起こり、一時は家も倒れる如く揺れ出し、実に稀なる大地震にて恐怖甚だし。8月4日 今度の大地震の原因は飽田郡金峰山より発せんと、もっぱら風評の談、山噴火の籠り居る由。8月7日、今日も震動一度をなす。今に熊本及近傍の人民は、山鹿町諸方に逃げ、家財を運搬して、身の要心をなす。熊本より山鹿町迄運送する車力人力等の賃銭六円も取り、実に滅法の賃金。(中略)急迫の場合は、やむをえないこと右の如し。(中略)熊本城百閒石垣古より大変ありといえども少しも動くことなし。今度の震動に合う長さ五間余崩落、城内の大なる石垣所々崩れ、依って鎮台兵も城内を出て、山崎練兵場或いは、川尻付近に出張あり。城内には哨兵のみ残しあり。皆28日の震動には鎮台兵死人負傷人多くあり。周章狼狽硝子石垣より落、身を傷くもあり、丁度大砲の音ぞなしずば、又合戦発せしと驚き誤りて死傷せりとぞ。
五野保萬は明治元年(1868年、数え年15歳)から昭和5年(1930年)に77歳で逝去するまで日記を残した。五野家は熊本県菊水町(現:和水町)にある。
官報
熊本県が発災翌日午前4時40分に発した電報の内容が、官報号外として配布された[5]。
脚注
- ↑ 日本付近のおもな被害地震年代表 - 日本地震学会
- 1 2 “熊本地震”. 国立科学博物館地震資料室. 2016年4月17日閲覧。
- ↑ 2016年11月1日付の西日本新聞夕刊など
- ↑ 高木誠治 編『恐怖におののいた 明治二十二年の大地震』敷島印刷〈防災くまもと資料〉、1995年3月。
- ↑ 『官報』号外 明治22年7月29日
参考文献
- “平成27年度 熊本県地域防災計画” (2015年5月25日). 2016年4月17日閲覧。
- “第4節 熊本県の特質と過去の主な地震災害” (PDF). 熊本県地域防災計画(地震・津波災害対策編). pp. 9-19 (2015年5月25日). 2016年4月17日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 小藤文次郎、熊本地震概察報告 地学雑誌 1889年 1巻 9号 p.399-410, doi:10.5026/jgeography.1.399
- 秋吉卓、淵田邦彦、熊本地震 (1889年) について 土木史研究 1998年 18巻 p.245-252, doi:10.2208/journalhs1990.18.245