橋岡 久太郎(はしおか きゅうたろう、1884年 - 1963年)は香川県出身の能楽師。観世流シテ方、橋岡家七世。日本藝術院会員。
来歴
吉川孝次郎の二男として1884年(明治17年)7月12日高松市鶴屋町[1]に生まれ、幼くして乃村家の養子となる[2]。大阪へ出ると乃村家の親戚に当たる観世流シテ方橋岡忠三郎(雅雪)に師事し、1899年(明治32年)「小鍛冶」で初舞台。もともとは忠三郎の甥の橋岡平三郎が継ぐ予定であったが、明治維新以降の能楽界の衰退を鑑み実業家の道に進んだ[3]ため、久太郎が芸を継ぎ橋岡久太郎を名乗った[注釈 1]。1901年(明治34年)上京し二十三代宗家観世清廉に入門[2]。1908年(明治41年)に独立し、赤坂榎町に居を構え淡交会を主催した。1911年「道成寺」を披く。
二代梅若実、観世華雪とともに観世流の発展に尽くした久太郎は、能の形式主義、権威主義に対し反骨精神を貫き、脱俗の風で知られた[5]。難声で、舞台の謡が聞こえぬ程であったが、リズム感には独自の主張があったと言われ、また京劇の梅蘭芳とも交流があったとされる[5]。
1927年(昭和2年)赤坂区福吉町に橋岡舞台を建てる。1945年(昭和20年)に戦災で焼失するが、1955年(昭和30年)港区榎坂町に淡交会舞台として再建[6]。
1952年(昭和27年)「阿漕」のシテで芸術祭賞[6][7]、1959年(昭和34年)度の芸術選奨文部科学大臣賞[8]、1960年に喜寿祝賀能における「羽衣」「菊慈童」により日本芸術院賞を受賞[2]。1963年(昭和38年)日本芸術院会員に認定され、同年9月15日青山の日赤病院にて没す。告別式は新宿区の観世会館で行われた[4]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 高松市史編修室 編『新修高松市史』 第2、1966年、476頁。NDLJP:3027206/252。
- 1 2 3 『グランド現代百科事典』 23巻、学習研究社、1980年12月、336頁。NDLJP:12404995/172。
- ↑ 『経済人』35 (6) (405)、関西経済連合会、1981年6月、59頁。NDLJP:2666843/31。
- 1 2 芸能学会 編『芸能』5 (10) (56)、芸能発行所、1963年10月、62頁。NDLJP:2276601/45。
- 1 2 日本人名大辞典+Plus,百科事典マイペディア,367日誕生日大事典, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,新撰 芸能人物事典 明治~平成,20世紀日本人名事典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル版. “橋岡久太郎(ハシオカキュウタロウ)とは?”. コトバンク. 2024年7月28日閲覧。
- 1 2 『邦楽百科辞典:雅楽から民謡まで』音楽之友社、1984年11月、812頁。NDLJP:12431346/414。
- ↑ “文化庁芸術祭賞受賞一覧 | 文化庁”. www.bunka.go.jp. 2024年10月20日閲覧。
- ↑ “芸術選奨 | 文化庁”. www.bunka.go.jp. 2024年10月20日閲覧。
- ↑ “橋岡久馬氏死去/観世流シテ方能楽師”. 四国新聞社. 2024年7月28日閲覧。
- ↑ Noh+編集部, 作成者: (2023年8月19日). “重要無形文化財保持者(総合認定)の新たな認定/日本能楽会新会員(令和5年・2023年、第18次増員)”. 能楽マガジン Noh +(ノープラス). 2024年7月28日閲覧。