本土決戦(ほんどけっせん、旧字体: 本土決戰)とは、第二次世界大戦太平洋戦争)において想定された日本本土への連合軍陸上戦闘に対する日本側の呼称である。

アメリカ軍イギリス軍フランス軍を中心とした連合国軍は1945年昭和20年)秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は全てを決するという意味で「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた[注釈 1]

1944年(昭和19年)6月以前の日本では、本土で地上戦を行うことについて具体的に話し合われたことは皆無であり、日本にとっては過去に例のない作戦計画だった[1]。 しかし、1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾して降伏したため、本土決戦は行われることがなかった。


背景

帝国政府大本営が「日米の天王山」と呼号し、死守すべく全力を注いだフィリピンの戦いでは、1945年(昭和20年)1月9日、連合国軍のルソン島リンガエン湾上陸によって日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。

また、連合国軍の潜水艦や航空機の攻撃による通商破壊に加え、マリアナ沖海戦レイテ沖海戦以後は制海権制空権を奪われた。機雷による日本沿岸の封鎖もあって内地外地の連絡網は完全に遮断され、撤退も増援も絶望的な状況に陥っていた。

一方、連合国軍の本土上陸に備えた防衛のための準備は挙国一致体制の掛け声でおこなわれていたが、本土と占領地との間の制海権、制空権の喪失による石油や金属など軍需物資の深刻な不足で遅々として進まず、航空機用の代替燃料として松根油の生産や、鋼材を節約できるコンクリート船武智丸)の建造さえ行なわれていた。その上日本本土空襲による爆撃も加わり、有効な防衛体制を構築すること自体が絶望的な状況であった。

本土防衛戦の準備

基本構想

1943年まで、大本営は本土での地上戦を想定していなかったが、絶対国防圏が破綻し、本土防衛戦を一から考慮せざるを得ない状況となった。 第一に国体護持が最優先課題であったため、1944年1月ごろから大本営の転進計画(松代大本営建設)が秘密裏に進められた。

1944年7月20日、参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示し、連合国軍の上陸に備え、九十九里浜鹿島灘八戸に陣地構築を命じた。また、関東防衛のための大本営直属部隊として第36軍が編成された。 1944年7月24日、大本営は『陸海軍爾後ノ作戦大綱』を定し、フィリピン、千島列島、本土、台湾の4方面で、連合国軍の侵攻を想定した迎撃作戦の準備を命じた(捷号作戦)。 その約1カ月後にフィリピンに米軍が侵攻。これに対し大本営はフィリピンを死守すべく捷一号作戦を発動したが、逆にレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅する大敗を喫し、日本は海上作戦能力を事実上喪失した。

その結果をうけ、大本営は本格的に本土防衛計画に迫られることになった。連合国軍の本土上陸侵攻を遅延させ、その間に本土の作戦準備態勢を確立するための『帝國陸海軍作戦計画大網』を1945年1月20日に定め、陸上防衛戦への準備が進められていくことになる。この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域を「外郭」とし、連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するという海軍の漸減迎撃戦略が採用された。

1945年4月8日、大本営は、連合軍上陸の際には各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたることと、『決号作戦準備要綱』を示達し、一連の防衛計画を正式な作戦名「決号作戦」とした。以降の大本営の構想は、部隊の後退、持久を認めない旨を各部隊に通達し[2]一億玉砕の思想にとらわれていくことになる。

日本軍は、連合国軍が本土に侵攻してくる時期を1945年秋と予測していた。当時の敵情分析をした書類には、

兵力の配備

1944年マリアナ諸島を喪失した頃、日本陸軍の総兵力はおよそ400万人であったが、そのうち、日本本土にあったのは、東部、中部、西部の各軍を合わせても約45万6千人で、総兵力のわずか11%に過ぎず、防衛戦を行うには兵力が不足していた[注釈 2]

兵力の欠乏を補うため、満洲や北方からの部隊転用が行われたほか、「根こそぎ動員」と呼ばれる現役兵から国民兵役に至るまでの大量召集と部隊新設が進められた。根こそぎ動員は、以下の通り、大きく3回に分けて実施された。

これらの動員によって、一般師団40個、独立混成旅団22個など約150万人近くが動員された。日本軍は、前述の時期を念頭に部隊の編成を実施した。しかし、期間や物資の制限から最終的には、兵力や装備が不足していても、編成が完結したと見なす方針が取られた。そのため、これらの師団は結局中途半端な人員・装備のままで配備されていった。

さらに、緊急時にのみ召集する防衛召集方式の部隊も、補助的な戦力として増設された。沿岸警備などを目的とした特設警備隊が引き続き編成されたほか、後述の国民戦闘組織と連携する部隊として地区特設警備隊も編成が始まった。従来は徴兵関係の事務処理機関だった連隊区司令部も、地区特設警備隊などを指揮して戦闘任務を負うことになり、職員兼任の地区司令部が新たに編成された。これらの部隊は兵器・訓練とも極めて不十分な状態であった。

以上のほか、本土所在の軍部隊の増加に応じた軍の秩序維持や軍民関係調整を図ることなどを目的に、国内配備の憲兵の大幅な増強も行われた。正規憲兵だけで14203人に及び、さらに補助憲兵9222人も増加配属された。これにより、国内憲兵は一挙に3倍の兵力となった。

特殊軍務機関の移転

『帝國陸海軍作戦計画大網』の方針に則り、本土防衛戦での諜報戦秘密戦遊撃戦細菌戦に備え、陸軍中野学校の群馬移転、および登戸研究所の長野移転が行われた。

海軍

指揮系統の一新

レイテ沖海戦の敗北により多くの艦艇を失い、すでに組織的戦闘力を喪失していた海軍は、南東方面艦隊及び南西方面艦隊を除いた、全部隊を統一指揮するため、陸軍の指揮系統改編と同じ時期、1945年4月25日に、慶應大学日吉キャンパスに海軍総隊司令部を設置し、初代の海軍総司令長官には連合艦隊司令長官が兼務し豊田副武大将、ついで小沢治三郎中将が任命された。

行政・民兵等の整備

軍事上の要望と国民の権利を調整するために「軍事特別措置法」が施行され、船舶港湾などの一元的運営、地方行政組織の臨戦化も図られた。例えば、船舶運営会に委ねられていた船舶管理は、軍徴用船と合わせて新設の大本営海運総監部が行うことになった。

さらに、3月下旬以降は、陸海軍と別に全国民の戦力化を図る国民戦闘組織の編成が進められた。3月23日に統制強化と民間防衛のための国民義勇隊の設置が閣議決定され、国民学校初等科終了以上の65歳以下の男性、45歳以下の女性のうち、病弱者と兵役者を除く全員を地域単位で組織した。6月22日の義勇兵役法公布により、国民義勇隊は陸海軍正規部隊以外の補助戦闘組織である国民義勇戦闘隊への編入が可能となった。義勇兵役法では、兵役法対象外である若年者・高齢者・女性も対象に取り込まれ、男性は15歳以上60歳以下(当時の男子平均寿命46.9歳)、女性は17歳以上45歳以下までが「義勇召集」によって、国民義勇戦闘隊員に編入され、「義勇兵」として戦闘に参加することが可能となった。ただし召集拒否は不可であり、逃亡、忌避に対しては罰則が加えられた。対象年齢者以外の者も志願すれば、戦闘隊に参加することが可能で、それ以外の者は戦闘予測地域からの退避が予定されていた。これに伴い、在郷軍人会が自主的に組織していた防衛隊は、国民義勇隊に一本化された。