日本統治時代の朝鮮人徴用(にほんとうちじだいのちょうせんじんちょうよう)は、狭義には、1944年9月に始まる日本統治時代の朝鮮人に対する戦時徴用を指す[1]。戦時中の朝鮮人労働者の総称に「徴用工」の語が用いられる場合もあるが、日本政府は正確を期して「旧朝鮮半島出身労働者」の語を用いている[2]

朝鮮人に対する戦時動員は、軍要員の動員(兵力動員)と労務動員に大別され、軍要員の動員(兵力動員)は志願1938 - 1943)、徴兵1944 - 1945)の2形式で、労務動員は募集形式(「個別渡航」(1938 - 1940)、「集団渡航」(1939 - 1942)、「官斡旋」(1942 - 1945)[3]徴用形式(1941年より「軍関係労務」、1944年9月より「一般徴用」)[1]、道内動員(道内官斡旋[注釈 1]、無償勤労奉仕[注釈 2]募集)などの形式で実施された。

概要

日本政府は1939年(昭和14年)から毎年、日本人も含めた動員計画を立て閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。朝鮮半島に対する動員の形態は、時期により、軍要員の動員(兵力動員)は志願制から徴兵制へと変化し、労務動員は募集(「個別渡航」(1938-40),「集団渡航」(1939-42),「官斡旋」(1942-45))と徴用(「軍関係労務への徴用」(1941- ),「一般徴用」(1944-45))、道内動員(朝鮮半島内部への動員。「道内官斡旋」,「勤報隊(勤労報国隊)」,「募集」等)などが併用された。

朝鮮半島内部への動員がのべ約344万7千人、「内地」(樺太を含む日本本土)・「その他」(南洋諸島等)への動員がのべ約53万8千人。別の数値や、数値をめぐる議論は後節を参照)を数えた。

上記の諸形式による動員の実態については、まだ未解明な点が多く、当事者の証言の収集と整理、史料の発掘と分析は現在も継続中である。現時点での主要な史料や証言、主な研究に見える諸見解については歴史・太平洋戦争期労働現場の実態と事例証言人数・総数歴史認識問題などの各節を参照。

動員形式の種類や形式ごとの動員数は時期により変動があるが、朝鮮半島在住者の動員先は朝鮮半島の内部とする道内動員が最も多数を占めた[5]。 戦時中の朝鮮半島における戦時動員のうち、軍要員の動員(兵力動員)を含まない労務動員は、朝鮮半島内部への動員が総数の70%〜90%を占めた(→詳細は次節を参照)が、動員形式の種類を問わず、朝鮮半島の外部(「内地」>および「その他(南洋諸島等)」)への動員を指す「強制連行」という表現が、1970年代から2000年代初頭にかけて盛んに使用され、現在もこの呼称の是非・妥当性について議論が続いている[6][7][8][9](→詳細は後節を参照)。

戦時中の朝鮮人に対する労務動員については、朝鮮人労働者移入という呼称を用いる論者も見られる[10]


戦後、朝鮮人に対する戦時動員は歴史認識問題・歴史教科書問題戦後補償問題として取り上げられてきた[11]

朝鮮半島における戦時動員の諸形式と人数

本節では、朝鮮半島における戦時動員の諸形式とその動員人数について述べる[12][注釈 3]。統計数値は在外財産調査会,1948に依る。他の典拠に見える数値や人数をめぐる議論は「日本での調査・主張」節を参照。

朝鮮半島に対する戦時動員は、軍要員の動員(志願徴兵)と労務動員に大別される。

軍要員の動員(兵力動員)

動員形式と人数は以下の通り。

朝鮮半島からの兵力動員[13]
陸軍特別志願兵海軍特別志願兵学徒志願兵小計徴兵
志願者数訓練所入所者志願者数訓練所入所者学徒志願者採用入隊数志願者採用数陸軍海軍動員総数
1938 2,9464062,946406406
1939 12,52861312,528613613
1940 84,4433,06084,4433,0603,060
1941 144,7433,208144,7433,2083,208
1942 254,2734,077254,2734,0774,077
1943 303,2946,3001,0003,3663,117306,66010,41711,193
--
1944 90,0002,00090,0002,00055,00010,00067,000
1945 -55,00010,00065,000

「1944年以後の数は「予定或いは概数であり、実際に動員された数とは異なっている」[13]

労務動員

動員先により、朝鮮半島を動員先とするものと、その他(内地樺太を含む日本本土)や南洋諸島など)を動員先とするものに大別される。

内地やその他の各地を動員先とする労務動員には、

などの形式がある[14]

朝鮮半島を動員先とする労務動員の形式には募集・官斡旋・徴用・道内動員などがあり[15]、このうち道内動員が最大多数を占める。道内動員は、さらに

などに区分される。

以上の諸形式の中では、道内動員の勤報隊が最大多数(1944年で約192万人,この年の動員数の82%)を占めていた[16]

朝鮮半島からの労務動員(動員形式別;1942年度 - 1944年度)[17]
動員先動員形式1942年度%1943年度%1944年度%
朝鮮 官斡旋49,0309.458,9246.776,6172.6
徴用900.06480.119,6550.7
軍要員1,6330.31,3280.2112,0203.8
道内動員333,97664.1685,73377.72,454,72482.9
小計384,72973.8746,63384.62,663,01690.0
日本 官斡旋115,81522.2125,95514.385,2432.9
徴用3,8710.72,3410.3201,1896.8
軍要員3000.12,3500.33,0000.1
小計119,98623.6130,64614.8289,4329.8
その他 軍要員16,3673.15,6480.67,7960.3
徴用1350.0
小計16,5023.25,6480.67,7960.3
小計 官斡旋164,84531.6184,87920.9161,8605.5
徴用4,0960.82,9890.3220,8447.5
軍要員18,3003.59,3261.1122,8164.1
道内動員333,97664.1685,73377.72,454,72482.9
- 合計521,217100.0882,927100.02,960,244100.0
朝鮮半島外への労務動員(行先別)[18]
年度当初計画数石炭山金属山土建工場他合計
1939 85,00034,6595,78712,674-53,120
1940 97,30038,1769,0819,2492,89259,398
1941 100,00039,8199,41610,9656,89867,098
1942 130,00077,9937,63218,92915,167119,721
1943 155,00068,31713,76331,61514,601128,296
1944 290,00082,85921,44224,37657,755286,432
1945 50,0007972298368,76010,622
907,300342,62067,350108,644206,073724,687
道内動員の内訳(動員形式別)[16]
1944年
道内官斡旋 492,131
勤報隊 1,925,272
募集 37,321
合計 2,454,724

概念・定義

戦時動員の諸形式についての概念・定義

軍要員の動員(兵力動員)

  • 軍要員[19]
    • 志願
    • 徴兵

労務動員

  • 募集
    • 個別渡航(1938 - 1940):内地の事業者が朝鮮半島において人員を募集することを解禁、企業は個別に募集・選考を行い、採用者は個別に内地へ渡航[3]
    • 集団渡航(1939 - 1942):内地の事業者が朝鮮半島において「募集・選考・自社の事業所への移送」までを一括して行う[1]
    • 官斡旋(1942 - 1945):朝鮮総督府が半島内の地方自治体に人数を割り当て、募集・選考・動員先の内地事業所への移送までを一括担当して実施[1]
  • 徴用
    • 軍関係労務業務へ限った一部への徴用(部分適用[20]);1941 -[1]
    • 一般徴用(全面的適用[20]);1944年9月 -[1]
  • 道内動員[21];朝鮮半島の13内の動員先へ配属
    • 道内官斡旋:朝鮮総督府が半島内の地方自治体に人数を割り当て、募集・選考・配属までを一括担当[注釈 4][22]
    • 勤報隊(勤労報国隊):1941年12月、国民勤労報国協力令に基づき、勤労奉仕隊を改組して、日本領の全域で発足。学校・職場ごとに、14歳以上40歳未満の男子と14歳以上25歳未満の独身女性を対象として組織され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された。1945年3月、国民義勇隊に改組されて廃止。
    • 募集

歴史

明治時代の朝鮮人渡航

1876年(明治9年)、日朝修好条規が結ばれ、朝鮮が開国すると1880年、金弘集らが第二次朝鮮通信使として来日、東京に朝鮮公使館が設置される。その後、留学生や亡命者などが入国し始める(朴泳孝金玉均宋秉畯李光洙など)。また、韓国併合以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた[23]

韓国併合以降

1910年韓国併合以降、渡航する朝鮮人は急増し、内務省警保局統計によれば1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していた[23]。併合当初に移入した朝鮮人は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で[24]、単身者が多い出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せ家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは半永住を志向する人々が増えた[23]。河宗文によれば、「日本政府は朝鮮人の渡航を抑制したり受容したりしながら、朝鮮人労働者を日本資本の差別的構造の中に編入させて行った」とする[25][26]。当時、日本での朝鮮人の生活は劣悪なもので川辺や湿地帯に集落を造り、賃金も日本人の約半分であったとされる[27]。それでも当時の朝鮮国内の賃金と比較すると破格の高収入だった。朝鮮人の朴代議士によると1933年当時、年間約5万人の朝鮮人が日本で増加して問題になっていた[28]

移入制限と解除

1919年4月には朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により日本への移民が制限され、1925年10月にも渡航制限を実施したが、1928年には移民数が増加した。朝鮮では1929年から続いた水害や干害によって、国外に移住を余儀なくさせられる者が増えた[29][30]

1934年10月30日岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化する[31]

日中戦争期

労務動員計画

1937年に日中戦争がはじまると、1938年3月南次郎朝鮮総督が日本内地からの求めに応じ、朝鮮人渡航制限の解除を要請し、1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正した[26][32]1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が日本本土で施行された(朝鮮では1944年9月から実施[33])。同じ1939年7月、朝鮮総督府は労務動員計画を施行し、朝鮮から労働者が日本に渡るようになった[26][34]。1939年以降、日本政府の労務動員計画によって毎年人員・配置先が決定され、朝鮮総督府によって地域が割り当てられ計画人員の達成が目標とされた[35]水野直樹はこの当時、「募集方式の段階から会社・事業所の募集は行政機関、警察の支援を得ていた」としている[35]

山口公一[36]もまた「1939年に開始される朝鮮人強制連行は戦争の長期化によって日本の労働力不足が深刻化すると同時に朝鮮内での軍需工業の拡張にともない、朝鮮人を労働力として強制的に動員するためのものであった」と説明している。山口は、日本政府の労務動員計画を3段階に分け、1) 1939年1月からの「募集形式」、2) 1942年からの「官斡旋方式」、3) 1944年9月からの「徴用令方式」があったとし、その最初の募集の段階から、行政・警察当局による強力な勧誘があった。したがって「募集とは言っても実態は強制連行」であると主張している[37][38]

1940年、日本政府は日本工場の労働需給の調整と、朝鮮の技術水準の向上を目的とした「朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件」を発信し、「労働者の朝鮮への往路旅費および帰郷旅費は雇用主が負担」「雇用主は朝鮮の技術向上を目的に必要な知識・技能を授ける事」「雇用主は徳を養う事」「雇用期間は5年以内」などの条件を日本陸軍に通達した[39]

住友鉱業1939年9月22日付「半島人移入雇用に関する件」では、総督府は、労務者動員計画遂行に協力すること、旱魃による救済のため、内地移住につき積極的援助をなすとあり、募集の実務は「朝鮮官権によって各道各郡各面に於いて強制供出する手筈になつて居る、即ち警察に於て割当数を必ず集める之を各社の募集従事者が詮衡(選考)することになって居る」と書かれていた[40]

国民徴用令の施行は1939年7月であるが、朝鮮では全面的発動をさけ1941年に軍関係の労務に徴用令を適用している[41]。1941年から1945年までに朝鮮から日本内地へ動員された軍関係の徴用労務者数は6万2784人である[42]。日本内地で働いていた朝鮮人労務者には、1942年10月から一部に徴用令を発動し軍属として採用稼働されていた。1944年9月以降は、朝鮮から送り出される新規労務者に一般徴用が実施された[41]

満州国三江省

また、1940年12月の関東軍通化憲兵隊の報告によれば、満州国三江省の鶴岡炭鉱における募集では、苦力募集をしたが、人が集まらなかったので「強制募集」をし、140人の内15人が逃亡したと記録がある[43]

1942年3月、朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集が開始された(細かな地域ごとに人数を割り当て)。

国民総力朝鮮連盟と愛国班

1940年に朝鮮では国民総力朝鮮連盟が組織された。庵逧由香は、「日中戦争を契機に、中央連盟ー地方連盟と学校、職場の各種連盟ー愛国班による二重の組織化・統制が朝鮮民衆を戦争動員に引き入れて行った」としている[44]。また愛国班に参加を強制した女性動員の実情については、樋口雄一が「特に農村部の女性動員は、流出した男子労働力の補充と食料増産の構造の中で行われた」と指摘している[45]

太平洋戦争期

1941年12月8日、日本とイギリスアメリカオーストラリアなどとの太平洋戦争が開始する。

朝鮮人の戦時徴用(1944年 - 1945年)

朝鮮総督府鉱工局労務課事務官の田原実は『大陸東洋経済』1943年12月1日号での「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」において、『従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あとの一割弱が斡旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこで官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひじょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています』と述べている[46]

1944年9月、日本政府は国民徴用令による戦時徴用を朝鮮半島でも開始し、1945年3月までの7か月間実施された。1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くは無かったともいわれる[26]。『朝鮮人強制連行論文集成』に記録されている証言では、徴用令には召集令状と同じ重みがあったこと、北海道や樺太、九州の炭鉱に面(村)で500人徴用されたという[47]

1944年4月13日付の朝鮮総督府官報 第五一五五号 (四)労務動員ニ就テ

1944年4月13日付の朝鮮総督府官報に載った、政務総監(総督の次席にあたる高官)田中武雄の訓示には次のように、

『国民動員計画に基く内地その他の地域に対する産業要員および軍要員の送出また激増を来し、今日なお相当弾力性を有する半島の人力が我が国戦力増強上最大の鍵となって居るのであります。…(中略)…官庁斡旋労務供出の実情を検討するに、労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関もまた概して強制供出を敢てし、かくして労働能率低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねばなりません』

自由意志が守られるはずの官斡旋だが、実情は自由意志を無視した強制供出が行われていたと書かれている[48]

1944年5月霊光郡での事例

1944年5月31日付の、北海道炭礦汽船株式会社の霊光郡送出責任者が釜山の駐在員に宛てた書簡では、霊光郡において「集合日指定時間内に120名割当に対し参集せる者36名よりなく(之れも面にて強制的に連行せるもの)」、このため「郡庁職員9名警察署高等経済係員及面職員を総動員、寝込みを襲ひ或は田畑に稼動中の者を有無を言はせず連行する等相当無理なる方法を講し」て動員対象者を確保し、また「万一割当責任数供出不能の場合は理事長の自己の家族中より適任者を送出するか或は本人出動する様、郡、警察、面長等より夫々申渡しを」するなどの措置をとって動員対象者の確保に努めていた。だが、この段階ではそのような強硬な手段を以ってしても十分な人員は集められず、「郡庁迄連行中逃走せしもの或は宿舎にて逃走せるもの等簇生又は不具者或は老人(息子逃走身代りとして父親を連行せる者)病人等多数あり」、しかも、「送出に無理せりたる為家族等と郡職員及面職員との間に大乱闘あり労務主任、次席等は顔面其他を殴打され負傷する等の騒ぎあり」というような事態を現出させていたことが書簡に記されていた[49]

外村大は「地方組織や警察などを通じての動員」と「密航や縁故渡航による渡航」では、働く場所や条件が違っていたと記述する。「朝鮮人労働者を希望した炭鉱の経営者など」は「劣悪な労働条件でも働いてくれる人材を調達するため」朝鮮にそれを求めたがやがて集まらなくなった。そこで「寝込みを襲ひ或は田畑に稼働中の者を有無を言はさず連行する等相当無理なる方法」を講し、徴用令の令状を交付した。ゆえに朝鮮において国民徴用令の発動が遅かったのは「“より寛大な方法”での動員が続いていたのではなく」「要員確保の実態は日本内地での徴用よりも厳しいものであった」と書いている[50]

内務省復命書

1944年7月31日付、内務省嘱託小暮泰用から内務省管理局長竹内徳治に提出された復命書[51] では「民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ」とある[52]。また「…然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果たして如何であろうか、一言を以って之を言うならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない。朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさることながら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である…」[53]、「徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である。其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が屡々あったからである」と記録されている[54]

この復命書について、元朝鮮総督府高級官僚であった大師堂経慰は「この報告は朝鮮総督府への要求を緩和させるための、陳情の目的もあった事を理解して頂きたい」「これは朝鮮全体として見ると、決して一般的ではなかった。地方地方で事情が異なっており、各人により対応が異なっていた」と語っている[55]

千葉県東金警察署長の報告書

終戦直後の1945年9月28日付の千葉県東金警察署長から千葉県知事宛「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」では、「大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きでしかも自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた」「朝鮮人も日本人である以上大東亜戦争をして有終の美を得せしむべく不可能なる労働を可能ならしめ戦力の増強に寄与したる点は内地人に劣らざる」と書いている[56]

労働現場の実態と事例

労働環境

山口公一は「動員された強制労働は過酷を極め、炭鉱労働者の場合はたこ部屋に入れられ、12時間を超える平均労働時間、生命の危険が多い炭鉱夫への配置がなされ、実際に死亡率が高かった。また、賃金は日本人の半分程度であり、強制貯金と労務係のピンハネの結果、手元には残らなかった」と主張している[57]

史実とはかけ離れたアクション娯楽映画であるが、2017年韓国製作の映画『軍艦島』が公開されたとき、それをみた端島(軍艦島)に当時いた元徴用工が、朝鮮人の待遇は劣悪で中国人の扱いはさらにひどかったとしながらも、多数の遺体をまとめて焼くシーンについて「亡くなった人は多かったが、日本人はその遺体をちゃんと弔って、韓国に送還していた。それだけは実に善良によくやった」と感想を語ったとされる[58]

西岡力は朝鮮人徴用工自身が書いた手記を元に、朝鮮人徴用工の待遇は良かったとしている[59]。1944年12月に広島市の東洋工業に徴用されたある徴用工は、月給140円という高給を受け、なまこあわびを食べ酒を飲んで宴会をするなど食生活も豊かだった。工場勤務も厳しいノルマなどなく、日本人の女工達と楽しく過ごしていた。夜には寄宿舎から外出して、日本人の戦争未亡人と愛人関係になっていた[60]。また、1945年3月に大阪府の吉年可鏻鋳鉄工場に徴用された別の徴用工は、徴用工の隊長とケンカで殴り合いを繰り返し、宿場を抜け出し鉄道で東京の立川へ行き、「自由労働者」として働いた。朝鮮人の親方の飯場で雇われ、半日仕事で日給15円もらった。仕事を休み東京見物もしていた。さらに別の飯場に移ると日給20円に上がった[61]。これらの話は、総じて、人目もある都市部で、最初から比較的大手の企業に徴兵等で減っていく日本人労働者と入れ替わるような形で雇われたというケースである。

また、韓国の落星台研究所イ・ウヨン研究員は、当時の炭坑の賃金台帳を元に朝鮮人炭鉱労働者の賃金が朝鮮半島で働く教員の4.2倍にもなる炭坑もあったとし、また他の職に就く日本人に比べても賃金面で優遇されていたとしており、韓国の映画などで「やせ細った朝鮮人労働者」のイメージが広がっているが「当時の写真を見れば健康で壮健堂々としていた」としている[62]

ジャーナリストの赤石晋一郎は韓国で複数の元徴用工に取材し、韓国内で流布されている被害者像とは異なる証言を得た。福岡県飯塚市の三菱炭鉱で働いていた崔漢永は「私は坑道を作る仕事を主にしていました。現場では日本人と朝鮮人が一緒に働いていた。休みは月に1日か2日でしたが、日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。」「朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった。」と語った[63]。20歳のときに佐賀県の造船所へ徴用された金炳鐵は、食料事情が厳しかった戦争末期も日本人と同じ食事が支給されていたと語っている。金は「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。」と語っている[63]。同郷だった姜彩九と孫義奉は10代の頃に徴用され、大阪の鉄工所で働いていたが、孫は「日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね。」と語った。姜は「仕事は鉄材を運ぶ仕事ばかりでした。それよりも恐ろしかったのは米軍の空襲です。夜に米機が姿を見せると、空襲警報が鳴りみな逃げ惑った。とても仕事を覚えるというような状況ではありませんでした」と語った。日本本土への空襲が酷くなった1945年以降は工員は散り散りとなり、姜は兵庫県の山中に逃げ込んで野宿生活を送っていた[63]

松代大本営建設における徴用

1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった[64]。「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた[65]。飯島滋明はその労働は過酷であったとし[66]、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められた主張している[67]。李性国、李浩根、李性欽は「松代」で働いていた朝鮮人は給金がもらえ、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と主張している[68]。飯島は「その生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいた」と主張している[69]。また、「朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある[70][71]。林えいだいは「天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害された」と主張している[72]

逃亡例

特別高等警察の記録[73] でも「移入朝鮮人労働者」による多くの逃亡があったとされている[74][75]。日本内地に動員された朝鮮人労務者の逃走者総数は22万6497人である。内訳は、募集時7万8181人、官斡旋及び徴用時14万8316人。これら逃走者で発見送還された者4121人、職場復帰した者1万2626人、所在不明者は20万9750人に上った[76]

1944年福岡県飯塚市住友鉱業所における労務斡旋と逃亡の事例は次のようなものだった。

山口公一は、1940年代の九州筑豊炭田地帯では全労働者の30 - 50%が朝鮮人労働者であったが、40%以上が逃亡したと言う[38]

君島和彦は「こうした戦時強制連行については、抵抗運動があった」と書き、遠藤公司の『戦時下の朝鮮人労働者連行政策の展開と労資関係』[78] や山田昭次の『朝鮮人強制連行研究をめぐる若干の問題』[79] を参考文献に挙げている[80]