徳川 綱重(とくがわ つなしげ)は、江戸時代前期の大名甲斐国甲府藩藩主[2]江戸幕府第6代将軍・徳川家宣の父。第4代将軍・徳川家綱の弟、第5代将軍・徳川綱吉の兄[2]甲府徳川家[3]

生涯

出生、将軍の子として

正保元年(1644年)5月24日、第3代将軍・徳川家光の二男(『藩翰譜』)として生まれる[4][5][注 2]。母は側室の夏(順性院)。童名は長松丸[4](『甲府市史』は長松とする[6])。

母・夏が綱重を身ごもった際、家光は厄年にあたっており、災厄を避けるために姉の天樹院(千姫)を養母とした。これは当時、「厄年の2つ子は育たぬ(すなわち、厄年に生まれた場合、2歳まで育たないということ)」という迷信から、千姫を養母として、実際には千姫の侍女だった松坂局が養育した[7]

慶安3年(1650年)、7歳のとき元服する[8]慶安4年(1651年)4月、甲斐国内で約14万4千石、駿河国内で約6千石を与えられた[6]承応2年(1653年)8月12日、従四位下左馬頭に叙任される[9]。同年10月7日、正三位左近衛権中将[9]

将軍継嗣と早世

承応3年(1654年)、別邸・甲府浜屋敷(後の浜離宮)が建築される[10]

寛文元年(1661年8月9日、武蔵国近江国信濃国・駿河国内で10万石を加増され、甲府城城主となり、計25万石を領した(甲府藩の成立)[6]。同年12月28日、参議補任され[9]、その唐名から甲府宰相と呼ばれる[6]。綱重は甲府城には入らず、城代が甲府領の統治に当たった[6]。綱重自身は、江戸桜田の屋敷に住んだことから、その所領は桜田領とも呼ばれた[6]

この頃、松坂局の侍女である於保良に手を出し、寛文2年(1662年)4月25日、長男・虎松(のち綱豊、家宣)が誕生した[7]

綱重は甲府25万石の藩主であったが、基本的には大名小路の江戸桜田御殿に定府した定府大名であり、藩政については家老新見正信諏訪頼郷が担当していた。また将軍の実弟のため、京都から関白二条光平の娘を正室に迎えることが決まったので、身分の低い於保良との間に生まれた息子たち(後の家宣、清武)らをそれぞれ家臣の養子としている。しかし、正室との間に実子には恵まれず、また正室の死去などもあり、綱重は自らの後継者として庶長子の綱豊を手許に呼び戻して世子とした[11]

長兄で第4代将軍の家綱には継嗣が無く[注 3]、そのため異母弟の綱重と綱吉が後継候補と見られていた。綱重は綱吉より年上であり、そのため次代への有力候補とされていた。しかし、綱重も余り頑健では無く病弱だったとされ、寛文10年(1670年)には病床に臥していたとされている[12]

延宝6年(1678年)9月14日、兄・家綱に先立って35歳で死去した[6][9][13]

戒名は、清揚院円誉天安永和[5]菩提所増上寺東京都港区[5]。増上寺では合祀塔に葬られており、墓石は能仁寺埼玉県飯能市)の山門前に置かれている。

嫡子・綱豊(のち家宣)が17歳で遺領を継いだ[6]

綱重の死去から2年後に家綱も継嗣の無いまま死去し、弟・綱吉が後に第5代将軍となったが[14]、綱吉にも子がなかったため[注 4]、綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して第6代将軍となった。

関孝和を抱えるなど学問に理解があり、甲府湯島聖堂と同様の聖堂を作ろうとした。綱重自身が甲斐へ赴いたことはないが、綱重期には在国の家臣団が主導し、釜無川の治水における徳島堰の開削などが行われた。

『武家勧懲記』によれば「綱重卿ハ自然ト権威備リ、剛勇有テ物毎好悪ノ意地ナク、行跡悠然トシテ、聡明叡智ノ御器量タリ」と評されている。

経歴

※日付は旧暦

  • 1651年慶安4年)4月3日、甲斐府中15万石に封ぜられる。
  • 1653年承応2年)8月12日、元服し、将軍徳川家綱のを一字賜わり、綱重と名乗る。同日、従四位下に叙位。左近衛権中将に任官。左馬頭兼任。弟・綱吉は、同日、従四位下右近衛権中将右馬頭に叙任。
    • 8月17日、正三位に昇叙。左近衛権中将兼左馬頭如元。弟・綱吉も同日、正三位昇叙。
  • 1661年寛文元年)閏8月9日、10万石加封。
    • 12月28日、参議に補任。弟・綱吉も同日参議に補任。
  • 1678年延宝6年)9月14日、薨去。伝通院(東京都文京区小石川)に埋葬。
  • 1705年宝永2年)9月21日、贈権中納言
    • 10月5日、増上寺(東京都港区芝公園)に改葬。
  • 1710年(宝永7年)8月23日、贈正一位太政大臣征夷大将軍。薨去後に征夷大将軍が贈られた一例である。

※参考資料=系図纂要、大日本史料総合データベース

贈征夷大将軍の辞令(宣旨)

徳川綱重 贈征夷大将軍の辞令(宣旨) 章弘宿禰

故權中納言源朝臣綱重
權右少辨藤原朝臣永資傳宣
權中納言藤原朝臣共方宣
奉 勅宜被贈征夷大將軍者
寳永七年八月廿三日
修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘 奉

(訓読文)

故権中納言源朝臣綱重
権右少弁藤原朝臣永資(日野永資、正五位下)伝へ宣(の)る
権中納言藤原朝臣共方(梅小路共方、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、宜しく征夷大将軍を贈らるるべし者(てへり)
宝永7年(1710年)8月23日
修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、正五位上)奉(うけたまは)る

遺体について

1959年に移転改築された際、6月から9月に遺体の調査が行われたが、四肢骨から推定した身長は160.1センチメートルであった。この調査については、鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』を参照。

徳川綱重が登場する作品

映画
テレビドラマ
小説

脚注

注釈

  1. 母は継室・紅玉院とされる。1673年 - 1673年。実在すれば、家宣と清武の異母弟となる。
  2. 『徳川幕府系譜』では二男とされている亀松が、『徳川実紀』や『江戸幕府日記』等では、その生年を正保2年2月29日(1645年3月26日)としている。これに従うのならば綱重は二男、亀松は三男となる。
  3. 家綱の実子は側室との間に死産流産であった。
  4. 綱吉の唯一の男子であった徳松は夭折。娘婿の徳川綱教もいたがその間に子女は無かった。

出典

参考文献

外部リンク

徳川家宣の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
8. 徳川秀忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 西郷愛子
 
 
 
 
 
 
 
4. 徳川家光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 浅井長政
 
 
 
 
 
 
 
9. 豊臣達子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 於市
 
 
 
 
 
 
 
2. 徳川綱重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10. 岡部重家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 於夏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 江戸幕府6代将軍
徳川家宣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 田中時通
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 田中保良子