岡 家利(おか いえとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備前国の戦国大名である宇喜多氏の家臣で、後世において富川秀安、長船貞親と共に「三人家老」と称された重臣[2]。通称は平内丞。官位は豊前守。父は岡総兵衛[1]、子は岡越前守[1]。『備前軍記』等の後世に編纂された軍記物では岡 利勝(おか としかつ)と称される。
生涯
宇喜多直家に仕える
備前国磐梨郡岡[注釈 1]の岡城を本拠とした中小領主である岡総兵衛の子として生まれる[1][3]。
岡氏は宇喜多氏による勢力拡大の過程で家臣として組み込まれたと考えられており[注釈 2][3]、家利も古くから宇喜多直家に仕え[1]、諱の「家」の字は直家の偏諱を与えられたと考えられている。
元亀2年(1571年)9月に備中国の三村元親を中心とする毛利方の軍勢が宇喜多氏に属する備中国の要衝・佐井田城を攻めた佐井田合戦において、備前国の土豪である難波与右衛門尉が負傷したため、同年9月11日に家利が難波与右衛門尉に書状を送って傷の具合を心配し、養生を勧めている[4][5][6]。さらに、同年9月23日には宇喜多直家からも難波与右衛門尉に書状を送って傷の養生を勧めており、同日に家利も同様の内容の添状を送っている[4][7][8][9]。
代替わり
天正10年(1582年)1月、宇喜多直家の死去により、嫡男の秀家が家督を相続した[11]。しかし、同年と推測される3月4日付けで羽柴秀吉が備前出兵を宇喜多家中に報せた書状が秀家ではなく5人の有力家臣である家利、明石行雄、宇垣宗寿、富川秀安、長船貞親に宛てられたように、まだ11歳の秀家に実権は無かったようで、宇喜多忠家をはじめとする有力家臣の合議によって政務や軍務が行われる集団指導体制がとられた[12]。また、秀吉が自らの近況を報せる際には秀家宛てに書状を送る一方で、具体的な指示を与えて対応を求める場合には、宇喜多忠家、明石行雄、富川秀安、長船貞親、家利ら複数の有力家臣に宛てて書状を送っている[2]。
同年6月、備中高松城の戦いで織田方と毛利方の和睦が結ばれて以降、織田家と毛利家の勢力境界線を確定する中国国分の交渉が天正13年(1585年)2月に妥結するまで続けられた[13]。織田方の交渉担当者は黒田孝高と蜂須賀正勝、毛利方の交渉担当者は安国寺恵瓊であったが、必要に応じて宇喜多家からも家利が交渉に参画した[14][15]。
天正11年(1583年)、宇喜多方の要衝にいた鈴木孫右衛門が毛利方の調略に応じることを懸念した江原親次(当時は宇喜多親次)は宇喜多氏への忠節を尽くす起請文を求め、鈴木孫右衛門もそれに応じて起請文を提出した[16]。同年7月11日に家利から鈴木孫右衛門に対して返書となる起請文を送っている[注釈 3][16]。
天正12年(1584年)から天正13年(1585年)にかけて、千原勝則と共に備中国の倉敷から早島にかけて長大な堤防(宇喜多堤)を築き、新田開発を行った[17]。また、天正13年(1585年)に中国国分が完了した後は家利に庭瀬城、花房秀成に備中高松城、岡平次郎と湯浅九郎兵衛に幸山城の在番が命じられた[17]。
豊臣政権下
天正13年(1585年)に行われる四国平定に際して、6月8日に秀吉から宇喜多忠家、家利、長船貞親、富川秀安、明石行雄に対し、6月16日の出陣と四国への渡海のために油断無く軍備を整え、秀家に武功を挙げさせるため尽力するようにとの指示が与えられている[18]。
天正14年(1586年)頃、宇喜多家の重臣たちの叙位任官が行われ、家利には豊前守の官職が与えられた[注釈 4][19]。
天正16年(1588年)2月19日、宇喜多家臣・寺町光直の大坂屋敷にて連歌会が終日開催され、最終的には参加していた公家の山科言経が自身の日記である『言経卿記』に「乱酒」と記録したほど盛り上がった[11]。この時の連歌会に家利も参加しており、他には宇喜多家臣の寺町光直、宇喜多忠家とその家臣たち、長船貞親、花房秀成、秀吉の御伽衆の大村由己らが参加していた[11][20]。また、同年3月20日に大村由己の大坂屋敷で開催された連歌会に宇喜多家臣の家利、長船貞親、寺町光直、花房正幸、楢村玄正、清台寺友龍が参加し、欠席した宇喜多忠家は参加者の誰かに和歌を託していたと山科言経は記録している[11]。
文禄の役
天正20年(文禄元年、1592年)3月、文禄の役で宇喜多秀家も朝鮮半島への出兵を命じられたため京を出陣し、家利も従軍した[21]。4月までに肥前国名護屋から対馬に到着し、4月22日には秀吉が秀家に対馬から釜山への移動を命じており、宇喜多軍も第八番の軍として4月中には朝鮮半島へと上陸したと推測されている[注釈 5]。
同年5月3日に小西行長や加藤清正らによって李氏朝鮮の都である漢城が制圧され、5月6日から5月7日にかけて宇喜多軍も漢城に到着した[22]。5月8日に名護屋城の秀吉が発した朱印状では宇喜多軍の役割は毛利輝元や小早川隆景と共に小西行長ら先手の軍勢の後詰であり[22]、朝鮮に在陣する諸将の戦略協議によって決まった役割分担でも、宇喜多軍は漢城の守備についている[23]。朝鮮側の史料である『隠峰野史別録』によると、宇喜多家の有力家臣たちも手勢を率いて漢城の守りを固めており、家利は李氏朝鮮の名族であった鄭士龍の邸宅に本陣を構えていたと記されている[注釈 6][24]。
同年9月23日、朝鮮半島において家利は戦死した[25]。かつて家利が釣鐘を寄進した相模国鎌倉の日蓮宗寺院である妙本寺の過去帳には「備州岡豊前守 領雄 文禄元壬辰歳九月廿三日高麗陣ニ討死 当山洪鐘ノ寄附之主即旦那」と記録されている[25]。
逸話
登場作品
- 漫画
- 重野なおき『殺っちゃえ!! 宇喜多さん』(リイド社『コミック乱ツインズ』連載、2021年- ) 「岡利勝」の名前で登場。
- ゲーム
- 『信長の野望シリーズ』(コーエーテクモゲームス、1988年- ) 1988年発売のシリーズ第3作『信長の野望・戦国群雄伝』から「岡利勝」の名前で登場。
脚注
注釈
- ↑ 現在の岡山県赤磐市岡。
- ↑ 同じく直家に仕えた岡剛介と血縁関係があるかは不明である。
- ↑ この時の起請文で家利が誓約した神仏として、「楚天、帝釈天、四大天王、総て日本国中の大小の神祇、殊に法華経、三十番神、八幡大菩薩、天満天神」が挙げられている[16]。
- ↑ 宇喜多家の重臣たちの叙位任官が行われた具体的な日付は不明であるが、秀家が従五位下・侍従に任官した天正13年(1585年)10月以降、かつ、史料上に「岡豊」(岡豊前守家利)、「富肥秀安」(富川肥後守秀安)、「長越」(長船越中守貞親)の文言が見出せる天正14年(1586年)12月以前の時期と考えられている[19]。
- ↑ 京を出陣して朝鮮半島へ渡るまでの宇喜多軍の動向について、具体的な日付等はよく分かっていない[22]。
- ↑ 家利以外の本陣についても記されており、「京陵洞」に戸川達安、浮田左京亮、花房職之、江原親次、明石掃部が、「西学洞」に長船紀伊守が、李氏朝鮮の名族である桂林君の邸宅に花房秀成が本陣を構えていた[24]。
出典
- 1 2 3 4 5 倉敷市史 第10冊 1974, p. 648.
- 1 2 大西泰正 2019, p. 37.
- 1 2 渡邊大門 2011, p. 229.
- 1 2 渡邊大門 2011, p. 128.
- ↑ 岡山県史 第20巻 1985, p. 28.
- ↑ 『備前難波文書』第12号、元亀2年(1571年)比定9月11日付け、難与右(難波与右衛門尉)宛て、岡平家利(岡平内家利)書状。
- ↑ 岡山県史 第20巻 1985, pp. 28–29.
- ↑ 『備前難波文書』第13号、元亀2年(1571年)比定9月23日付け、難波与右衛門尉殿宛て、宇泉直家(宇喜多和泉守直家)書状。
- ↑ 『備前難波文書』第14号、元亀2年(1571年)比定9月23日付け、難与右(難波与右衛門尉)宛て、岡平家利(岡平内家利)添状。
- ↑ 岡山県史 第5巻 1991, pp. 243–244.
- 1 2 3 4 大西泰正 2019, p. 98.
- ↑ 大西泰正 2019, p. 36.
- ↑ 大西泰正 2019, p. 47.
- ↑ 大西泰正 2019, pp. 47–48.
- ↑ 渡邊大門 2011, pp. 177–178.
- 1 2 3 美作古簡集註解 下巻 1936, pp. 116–117.
- 1 2 総社市史 通史編 1998, p. 362.
- ↑ 大西泰正 2019, p. 59.
- 1 2 大西泰正 2019, pp. 90–91.
- ↑ 渡邊大門 2011, p. 207.
- ↑ 大西泰正 2019, p. 112-113.
- 1 2 3 大西泰正 2019, p. 114.
- ↑ 大西泰正 2019, pp. 116–117.
- 1 2 大西泰正 2019, p. 121.
- 1 2 大西泰正 2019, pp. 121–122.
- ↑ 立石定夫 1988, p. 273.
- 1 2 3 4 渡邊大門 2011, p. 173.
参考文献
- 矢吹金一郎 編『美作古簡集註解 下巻』対岳楼書房、1936年9月。
国立国会図書館デジタルコレクション - 岡山県史編纂委員会 編『岡山県史 第20巻(家わけ史料)』岡山県、1985年3月。全国書誌番号:86052856。
国立国会図書館デジタルコレクション - 岡山県史編纂委員会 編『岡山県史 第5巻(中世2)』岡山県、1991年3月。全国書誌番号:92000228。
国立国会図書館デジタルコレクション - 総社市史編さん委員会 編『総社市史 通史編』総社市、1998年3月。全国書誌番号:99015780。
国立国会図書館デジタルコレクション - 渡邊大門『宇喜多直家・秀家 ―西国進発の魁とならん―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2011年1月。ISBN 978-4-623-05927-0。
- 大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』KADOKAWA、2019年9月。ISBN 978-4-04-082287-7。