宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備前国戦国大名。通称は八郎、三郎右衛門尉。受領名は和泉守。位階従五位下

戒名は涼雲星友。

宇喜多興家の子とされるものの、近年は疑問視する学説が提示されている[注釈 3]。子に秀家など。室は正室(『太閤記』では中山勝政の娘とされるが一次史料は存在せず名前や出自は不明)と、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる円融院

宇喜多氏は直家の代で急速に台頭し秀家の代で没落した経緯があり、同時代の史料に乏しく家系を含め不明な点が多い。多くの場合、江戸時代以降に編纂された軍記物が一次資料とされている点に注意が必要である。

生涯

浦上氏の家臣時代

享禄2年(1529年)、宇喜多興家の子として生まれた[4]とされるが、興家の名前が初めて登場するのは、直家の時代から150年ほど経った『和気絹』であり、延宝6年(1678年)に記された『西国太平記』では「父某が島村観阿弥に殺された」と記されている。一説に備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城で生まれたという[注釈 4]

軍記物に由来する通説によると、浦上村宗敗死による混乱の中で、享禄4年(1531年[2](または天文3年(1534年))、祖父・能家が暗殺され、宇喜多氏の家督は大和守家に移り、直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったというが、興家も島村氏との諍いで横死して没落していた。村宗の跡を継いだ浦上政宗と備前を任されたその弟宗景は山陽に侵略を繰り返す尼子氏への対応を巡って分離し国衆も二派に分かれて対立したが、直家は天神山城主・宗景に仕え、政宗派への攻撃を繰り返して頭角を現す。なお、近年の新説により、上記の通説には誤りが含まれていることが確認されている[5]。直家の父に関する新説は上記の通りである。また、宇喜多氏の家督は大和守家に「移った」とされるが、大和守家が仕えていたのは浦上氏当主・浦上政宗であり、和泉守家(能家・直家)が仕えたのは家臣で政宗の弟の浦上宗景であったため、元より嫡流は大和守家であったと考えられる[6]

軍記物では、直家は策謀に長けており、「祖父の復讐を果たすため[注釈 5]」に島村盛実を暗殺したのを初め、舅である中山勝政龍ノ口城主・穝所元常を殺害したとされている。いずれにせよ、直家は浦上宗景の直接の家臣というより傘下の国衆として勢力を拡大、その従属的同盟者となって政宗派を制圧し、大和守家も打倒して宇喜多氏の家督を奪回した[7]

勢力拡大

永禄9年(1566年)2月、直家は美作国へ進出した備中国三村家親を、顔見知りの阿波細川氏の浪人・遠藤兄弟(俊通秀清)を起用して鉄炮で暗殺した。

永禄10年(1567年)7月、直家は明善寺合戦により、それまで備前西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功する。その後も、姻戚関係にあった金川城主の松田元輝元賢親子、さらに岡山城主・金光宗高などを没落させ、その所領を自己の知行とするなど勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者となった[8]。なお、松田親子に関しては、近年の研究によって、実際は松田元堅という人物を攻めたこと、その理由は直家の野望ではなく浦上宗景備前国統一のためであること、そもそも松田氏は直家の祖父・能家の時代から浦上氏と関係は悪かったことなどが明らかになっている。

永禄12年(1569年)、直家は将軍となった足利義昭織田信長、西播磨の赤松政秀と結び、将軍に従わない主君・浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。しかしながら、赤松政秀が青山・土器山の戦い黒田職隆孝高親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正別所安治なども織田軍の越前国侵攻のために戻されると、逆に宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め、降伏させてしまう。その後、毛利氏に対抗するために足利義昭の仲裁で和睦しており、この際に浦上氏から独立している。

天正2年(1574年)、義昭が信長により追放されたことで、信長と繋がっていた宗景と再度対立した直家は、小寺氏預かりとなっていた宗景の兄・浦上政宗の孫・久松丸の存在に目をつけ、小寺政職に久松丸の備前入りを打診し(『小寺家文書』)、許可を得るとこれを擁立し宗景に対して攻勢を仕掛けた。今回は久松丸の擁立と直家の事前の調略により、美作や備前国内での宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、さらに宗景と対立していた安芸国毛利氏と結び、軍事面での不利を覆す。

天正3年(1575年)、毛利氏による三村氏攻撃にも加勢するなど、協同体勢を取った。

同年9月、宗景の腹心であった明石行雄ら重臣たちも内応させて、宗景を播磨国へ退け、備前国のみならず備中国の一部・美作国の一部にまで支配域を拡大した(天神山城の戦い)。

しかしながら、宗景追放後も依然として備前国内には旧浦上家臣の勢力が残っており、また宗景や一門の浦上秀宗なども播磨国からこれらと密かに連絡を取り合い[9]、度々備前に潜伏する旧浦上家臣の煽動した小規模な蜂起に悩まされることとなる。この状況は天正6年(1578年)12月の浦上残党が一斉蜂起し、幸島を占拠するという事件まで続くこととなる。浦上宗景・秀宗らが首謀者となったこの武装蜂起は一時期、天神山城を奪うなど勢いを見せ、鎮圧には数ヶ月を要した。しかし、これを期に備前国や播磨国に潜んでいた旧浦上の勢力を領内から放逐。さらに宗景を援助していた美作鷲山城主の星賀光重を討ち、宗景の領主復帰の野望を砕きついに宇喜多家の領内での安定した支配権が確立されることになった。

毛利氏からの離反・織田氏への臣従

やがて、織田信長の命を受けた羽柴秀吉中国路方面に進出してくると、毛利輝元と組み、これに対抗した。

天正7年(1579年)1月、輝元は同月に予定されていた上洛を断念した。輝元が上洛を断念したことは、備前の宇喜多氏、伯耆の南条氏といった織田氏との境界最前線に立つ領主たちに動揺を与えた[10]

5月、直家は信長に内応したとして、東美作の後藤勝基を滅ぼした。

6月前後、直家は毛利氏から離反し、信長に通じた[11][12]。直家が毛利氏から離反した理由に関しては、輝元が上洛を断念したために播磨へ進出する野望が実現できなくなったこと、加えて信長から備前と美作の領有を確約されたことにあった[11]。直家の離反により、毛利氏と織田氏の争いは、織田氏有利に傾いていった[13]

9月4日、秀吉が安土城に登城し、直家の赦免を願った[14][15]。だが、直家の調略は秀吉の独断であったため、信長の承認を得るまで1ヶ月余を要した[15]。信長としては、裏切りを繰り返す直家を信用できなかった可能性もある[14]

10月、直家と信長の和睦が成立した[14]。だが、これは直家が信長から「許された」とする見方もある[14]

10月晦日、甥の宇喜多基家が直家の名代として、摂津昆陽野に在陣中の織田信忠に参上し、宇喜多氏は正式に織田政権の傘下に入った[15][16]。その後、直家もまた、播磨姫路城に在陣中の羽柴秀吉の元に参上して、謝礼を申し上げている[16]

以降、美作・備前各地を転戦して、毛利氏と合戦を繰り返した。

晩年

天正8年(1580年)の段階では、宇喜多氏は毛利氏の攻撃をしのいでいたが、天正9年(1581年)になると直家は毛利氏との戦いにおいて苦境に立たされていき、美作国においては、毛利氏に岩屋城宮山城を奪取された[17]。さらに、同年4月に急死した伊賀久隆の後を継いだ伊賀家久が宇喜多氏を離反して毛利氏に属し、同年11月までに備前国と美作国の交通の要衝にあたる忍山城が毛利方に奪われたことで、織田信長は直家への怒りを吐露しているが、その翌月には態度を変え、毛利氏に勝利した際の褒美として備中国の加増をちらつかせて、苦境に立つ宇喜多氏の奮起を促している[17]

しかし、戦況の悪化に伴って直家は体調を崩すようになっており、毛利氏との戦いが続く中、岡山城において死去した[1][18]

直家が死去した年月日には諸説あり、後世の編纂史料である「浦上宇喜多両家記」や「備前軍記[注釈 6]に記された天正9年2月14日(1581年3月18日)説がよく知られているが、2月14日以降も同時代史料において直家の生存が確認でき、天正10年(1582年1月21日には羽柴秀吉が宇喜多氏の重臣を連れて織田信長の居城である安土城に登城し、直家の嫡男である八郎(後の宇喜多秀家)の家督継承を信長に承認させていることから、現在では天正9年(1581年)11月から天正10年(1582年)1月までの間に直家が死去したと考えられている[1]

その後、直家の死はしばらく隠され[19]、天正10年(1582年1月9日が公式な忌日とされたという説もある。

なお、本記事冒頭で掲出している木像は岡山大空襲により岡山城とともに焼失しており現存するのは戦前の写真のみとなっている。

人物

  • 信仰心にも厚く、金川城主の松田氏が領内の主要な寺社に対して自身の信奉する日蓮宗への改宗を迫った時、これに応じなかったために焼き討ちに遭ったが、堂塔社殿を焼失した金山寺吉備津彦神社の再建を援助している。そのため、これらの寺社は直家を崇敬している。
  • 岡山城を居城としてからは、城下に商人を呼び寄せ城下町の整備に取り組んだ。それまで備前国の商業の中心地は西大寺備前福岡など東部に集中していたが、直家と秀家の2代にわたる城下町の整備により、岡山城を中心とする市街地が発展した。

家臣

長船、戸川、岡の3人は「宇喜多三老」と称される。

宇喜多直家の関連作品

小説
漫画・アニメ
ゲーム
テレビドラマ

脚注

注釈

  1. 光珍寺が所蔵していたが戦災で焼失。
  2. 忠家と春家は同一人物であるとする説もある。宇喜多忠家#春家との同一人物説宇喜多春家#同一人物説を参照。
  3. 近年発見された文書によれば、天文10年〜同12年(1541年1543年)に、山科言継が山科家領の年貢催促を晴政(赤松晴政あるいは中山晴政)と宇喜多和泉守に依頼している。この文書によって、同時期まで能家が生きていた、あるいは能家の後継者の宇喜多和泉守が後継者として活躍していたことが確認でき、同時に大和守興家の宇喜多家継承や能家との親子関係も疑問視されるようになった[3]
  4. 当時宇喜多氏は砥石城を支配していたが、そもそも直家が嫡流であったのか、宇喜多能家画像が伝えられ家督・砥石城などを継承した大和守家が嫡流であったのかを含め確たる史料がない。
  5. 史書に宇喜多能家を盛実が殺害したという記録はない。
  6. 「備前軍記」によると、直家の死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという[8]

出典

  1. 1 2 3 石畑匡基 2023, p. 222.
  2. 1 2 湯浅常山の著書『常山紀談
  3. 大西泰正「直家登場以前の宇喜多氏」(『戦国史研究』71号、2016年)
  4. 「浦上宇喜多両家記」
  5. 大西泰正「直家登場以前の宇喜多氏」(『戦国史研究』71号、2016年)
  6. 大西泰正「直家登場以前の宇喜多氏」(『戦国史研究』71号、2016年)
  7. 渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』岩田書院、2011年 pp.7-15
  8. 1 2 「備前軍記」
  9. 坪井文書など
  10. 光成準治 2016, p. 139.
  11. 1 2 光成準治 2016, p. 140.
  12. 奥野高広 1996, p. 263.
  13. 光成準治 2016, p. 141.
  14. 1 2 3 4 渡邊大門 2011, p. 160.
  15. 1 2 3 大西泰正 2017, p. 22.
  16. 1 2 朝尾直弘「織豊政権と宇喜多氏」『岡山県史』六巻 近世Ⅰ第1章第1節/所収:森脇崇文 編『宇喜多秀家』戎光祥出版〈織豊大名の研究 12〉、2024年10月、40頁。
  17. 1 2 石畑匡基 2023, p. 221.
  18. 「宇喜多直家」『朝日日本歴史人物事典』
  19. 蜂須賀文書写、『両家記』
  20. 1 2 高濱孝一 1903, pp. 6–7.

参考文献

外部リンク