大福密約(だいふくみつやく)とは、自由民主党の有力議員であった大平正芳と福田赳夫の間で1976年(昭和51年)に交わされたとされる密約のことである。
前史
1970年代の自民党内の首相候補であった三角大福中の5人の内、先陣を切って首相になった田中角栄が、1974年に自身の金銭スキャンダル(田中金脈問題)で倒された後、後継を巡って田中からの禅譲を狙う大平正芳と、田中の最大のライバルであった福田赳夫が激しく対立。時の椎名悦三郎副総裁の裁定によりこの三名に次ぐ規模の実力者であった三木武夫が首相に推された(椎名裁定)。
当初は短命政権に終わると見られていた三木内閣は、1976年に田中の次なるスキャンダルであるロッキード事件が発覚すると、政界浄化の名のもとに検察の捜査に便宜を図るとともに、自らが入手したとされる「灰色高官」の名簿の存在をほのめかして党内の反主流派を脅迫。田中が逮捕されるに及ぶと、三木の暴走に恐怖を覚えた反主流派は三木を倒すべく、挙党体制確立協議会(挙党協)を結成。田中派(七日会)、福田派(清和政策研究会)、大平派(宏池会)の主力三派も一時的に手を組んでともにこれに加わり、三木に退陣を求めた(三木おとし)。三木は解散をちらつかせ、挙党協は大臣を罷免されてでも徹底反対の立場をとったが、新自由クラブの離党を受けて選挙後の与党過半数の見込みが薄くなったことにより三木もトーンダウン。9月14日、解散をせず年末の任期満了選挙の審判に従う旨を表明したことで、一時休戦となった[1][2]。
この頃、挙党協内でのポスト三木の候補は、2年前と同じく、福田と大平であったが、前回はこの二人の間での対立が先鋭化したことから三木に政権の座を奪われていたことから、両者の間での調整が、ポスト三木の焦点であった。この時点で福田派は、挙党協には加わりつつも、イデオロギー面で見解が異なる田中・大平両派と組むことには異論もあった[注釈 1]。政調会長として執行部入りしていた松野頼三らは、三木の側について禅譲を狙うことを主張したが、園田直が田中・大平との連合を主張して、派内は二つに分かれた。9月15日の内閣改造にあわせて行われた役員改選で、三木は幹事長に内定するが、挙党協の反対で外されたのがきっかけとなり、福田派は三木と袂を分かち、松野は福田派を離脱した[3]。
密約の締結
大福密約は、この福田が田中・大平と組んだときに結んだとされるが、密約の存在やその実態を巡っては、関係者の間での証言に相違がある。これは後述の通り、両者の連携がのちに反故にされたことから、密約の内容(福田と大平の間での政権の譲渡に関する取り決め)について、大平サイドは肯定的に、福田サイドは否定的に解釈、主張しているためである。
まず、福田と大平は2度にわたって会談し、10月27日、ホテルパシフィック東京にて、福田・大平両名に加えて、立会人として福田派より園田、大平派よりナンバー2の鈴木善幸、仲介人として大ベテランの保利茂(小派閥の周山会の会長だが、年末の総選挙後に衆議院議長に就任)が一堂に会し、以下の文書を作成、保利以外の4名が連署、花押(園田のみ印鑑)を捺したとされる[4]。
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一、ポスト三木の新総裁及び首班指名候補には大平正芳氏は福田赳夫氏を推挙する。 一、総理総裁は不離一体のものとするが、福田赳夫氏は、党務を主として大平正芳氏に委ねるものとする。 一、昭和五十二年一月の定期党大会において党則を改め総裁の任期三年とあるのを二年に改めるものとする。 右について、福田、大平の両氏は相互信頼のもとに合意した。 昭和五十一年十一月 |
大平が福田に先に総理総裁ポストを譲り、総裁任期が3年から2年にされことは、福田は総裁を1期2年のみ務めて2年後に大平へ政権を禅譲することを了承したものと解釈され、園田も「これじゃ2年後、私たち(福田派)は大平政権樹立のために走り回るということを約束させられたようなものだ[5]」などと語ったという。
なお、この席で狂喜した福田は、「2年後には政権を福田から大平へ譲渡する」旨の一文を盛り込むことを申し出たが、大平が福田の言を信ずるのでそれには及ばないとしたともいわれる[注釈 2]。
三木は解散権を行使できぬまま衆議院の任期満了を迎え、12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙で自民党は半数を割り込む敗北を喫することとなり、責任を問われた三木は12月17日に退陣を表明した[6]。後継を巡り、田中、福田、大平の主力三派が福田を統一候補として押し立てていたため他の派閥は立候補する動機がなく、12月23日の両院議員総会において福田は無投票で第8代自由民主党総裁に就任、翌24日には国会での首班指名を受けて、福田内閣を発足させた(大平は党幹事長として党務を差配し、園田は内閣官房長官、鈴木は農林大臣に起用される)。
密約書の実在について
会談に立ち会った鈴木は生前「それを文章にして、署名捺印したものがどこかに今でも秘蔵されている」と語り[7]、大平の娘婿である森田一も「書面を見た」とするなど[8]、大平派の議員らは密約書の実在を主張した。
一方、福田の長男である福田康夫は、「そういうものはなかった。ある人(園田直)が発言したことで一気に、本当のごとく広がっただけだ。福田(赳夫)もはっきりと『ない』と言っていた[8]」と、密約そのものを否定し、「福田(赳夫)政権は順調に実績を上げていたし、代わらなければならない理由はなかった。福田は『譲るときは大平さん』という気持ちを持っていた。年齢の問題もあり、いつまでも首相をやるとは考えていなかった」と主張している[9](1978年総裁選時点で福田は73歳、大平は68歳)。
2004年に週刊誌「読売ウイークリー」が上述の「大福密約の覚書」の内容を公開した。この文書は園田の次男である園田博之が所持していたもので、宏池会の便箋に「福田・大平了解事項」と記載されていた。その後、産経新聞の今堀守通が、署名の筆跡がいずれも同じであることや花押が福田のものと一致しないことを疑問に思い、持ち主の園田博之を取材したところ、文書は義母で園田直の妻であった園田天光光が保管していたものであること、博之自身もこの文書を本物だと思っていなかったことなどが判明した。また、博之は文書を大切なものだと思っておらず、今堀の取材時には既に紛失していたという [5][10]。
その後
密約から2年後の1978年の総裁改選において、福田と大平の間で「密約」の履行を巡って腹の探り合いが行われるが、最終的に福田は大平への禅譲を拒否して総裁選へ立候補。大平も田中の後押しを受けて立候補したため、密約は完全に反故になった。同選挙では、田中派の電話作戦によって党員票を大量に獲得した大平が勝利、第1次大平内閣が発足した。
以降、田中派は、田中が自身のロッキード事件の裁判への対策として権力の維持につとめたことから膨張化し、他派閥を凌駕する規模になる。田中は、自派の勢力をもって時の政権の生殺与奪を握ることになったため、事実上の後継である平成研究会(竹下登派)とあわせて、田中の系列の影響が及ぶ政権が続く。福田派は田中・竹下相手に全く歯が立たなくなり、清和会主宰の政権が誕生するのは、田中・竹下没後の2001年、第1次小泉内閣の成立を待つこととなる。
脚注
- 注釈
- 出典
- ↑ 升味 1985, pp. 290–292.
- ↑ 倉山 2015, p. 226.
- ↑ 倉山 2015, pp. 224–225.
- ↑ 升味 1985, p. 295.
- 1 2 “【政治デスクノート】“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は(3/4)”. 産経ニュース (2015年5月6日). 2020年9月13日閲覧。
- ↑ 伊藤 1982, p. 298.
- ↑ 『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』190p 岩手放送、1991年。
- 1 2 “【政治デスクノート】“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は(2/4)”. 産経ニュース (2015年5月6日). 2020年9月12日閲覧。
- ↑ “【子・孫が語る昭和の首相】(4)福田康夫氏が父・福田赳夫を語る…「金権」を否定し、「質素」を通した『勝者』 “大福密約”は「ない」”. 産経ニュース (2015年4月6日). 2020年9月12日閲覧。
- ↑ “【政治デスクノート】“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は(4/4)”. 産経ニュース (2015年5月6日). 2020年9月13日閲覧。
参考文献
- 伊藤昌哉『自民党戦国史―権力の研究』朝日ソノラマ、1982年8月30日。ISBN 978-4257031635。
- 倉山満『自民党の正体』PHP研究所、2015年10月2日。ISBN 978-4-569-82667-7。
- 升味準之輔『現代政治 1955年以後 上』東京大学出版会、1985年2月20日。ISBN 4-13-033026-8。