おニャン子クラブ(おニャンこクラブ)は、フジテレビテレビ番組夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ[6][7]1985年昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて活動した[8]。通称「おニャン子」。

概要

1985年(昭和60年)4月1日、フジテレビのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』開始とともに番組内のアシスタントとして同時に芸能界デビューし、3か月後の1985年7月5日に発表したデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットしてブレイクした[9][10]

会員番号制度、歌詞に含まれる独特のユーモア、本業の学生活動を優先させる「クラブ活動的」な感覚での芸能活動が人気を博して、一般の中高生を中心に[11]一大ブームとなる[12][13][14]

以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ名義、グループ内の小ユニット(『うしろゆびさされ組』『ニャンギラス』『うしろ髪ひかれ隊』)名義で、シングル、アルバム、ビデオソフト、写真集を絶え間なくリリースし続けてヒットさせた。"おニャン子旋風" "おニャン子現象"と呼ばれる社会現象となり[15][16]1980年代後半[注 2]日本のアイドルシーンを席捲した[6][13][17]

1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』の番組終了に伴い、翌9月に解散コンサートを行ない、わずか2年半でその活動が閉じられた。2年半の間にメンバーの加入と脱退が頻繁に行われたので、メンバーの顔ぶれは常に流動的であった。結成時は11人で、解散時は19人が在籍していた[注 3]

おニャン子クラブは日本で最初の大人数アイドルグループとされ[18]、メンバーを固定せず、卒業や新メンバーの加入があるという、1980年代当時において画期的なアイドルグループであった[19]。おニャン子クラブの登場は、日本の音楽シーンに、アイドル観に、そしてテレカ等の販売を巡るパブリシティ権の問題(おニャン子クラブ事件)に、大きく揺さぶりをかけた[13]

歴史

結成までの経緯

1983年(昭和58年)から始まったフジテレビ土曜深夜の生放送番組『オールナイトフジ』は、"女子大生ブーム"を巻き起こすなど社会的現象ともいえるほどにヒットし[20]、そのヒットの一翼を担った番組アシスタントの女性グループ、オールナイターズもアイドル的な人気と活動展開で盛り上がっていた[21][22]

オールナイターズは、既存の芸能人ではない素人の女子大生たちを中心に構成されていて、それまで崇高な存在であったアイドル像とは相反していたことで注目を浴びていた。素人女子大生集団のオールナイターズがレコードを出したりタレントに転身するといった流れは、おニャン子クラブやおニャン子以降のグループアイドルの原点とされ、後世に絶大な影響を及ぼした[22]

その成功から、フジテレビは同じスタッフによるもので、平日夕方の時間帯で中高生をメインターゲットに放送する、『オールナイトフジ』と同様な生放送の情報バラエティ番組『夕やけニャンニャン』の開始と、オールナイターズに相当する番組アシスタントの女性グループ、おニャン子クラブの結成を企画する[1][23][24]

1985年(昭和60年)

1985年4月からの夕方ローカル放送枠で行うレギュラー番組に先駆けて、まずはパイロット番組として、1985年初頭に特番『オールナイトフジ女子高生スペシャル』(1985年2月23日、3月16日)を制作して放送。その特番に出演していた女子高生の中から選抜した11人でおニャン子クラブを結成し、4月1日から『夕やけニャンニャン』放送開始とともに出演させた[25]

おニャン子クラブは当初からメンバーの増員を図ることとなった。『夕やけニャンニャン』番組開始時からメンバー選定のオーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」を設け、放送第一回目のオーディションで河合その子(No.12)、内海和子(No.13)、富川春美(No.14)が加わり、以後、毎週のオーディションでメンバーを拡充していった[26]

平日月曜から金曜まで夕方5時からの一時間番組だった『夕やけニャンニャン』の番組コンセプトに“放課後”を置いていたため、現役の女子高生が中心に集められた。また、「どこにでもいそう」、「ちょっと気になる可愛い同級生」と、オールナイターズのコンセプトが踏襲されて、芸能界に染まっていない素人感覚のメンバーを集めたのだが、当初から芸能界志向のある者や、その関連オーディションの常連者、既に芸能事務所に所属していた者、オールナイターズ出身者で既に名前が知られていた者まで参加していた。

その後、1985年4月に発生した「週刊文春喫煙事件」の影響により、番組開始からわずか3週間弱で一部のメンバーがグループからの除籍を余儀なくされたものの、看板メンバーが中心となって以後の番組を盛り上げていった[26]

『夕やけニャンニャン』放送開始から3か月後の7月5日にシングル「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビュー[27]。たちまちにヒットしていき、当初から評判があった番組とおニャン子クラブの人気はここでブレイクした[28][29]。それを期に『夕やけニャンニャン』は番組開始当初は7局ネットだったのが年内には全国ネット規模の23局ネットまで拡大していく。当初3%だった視聴率も、年末には18%を超えるようになる[30]

また、おニャン子クラブは、フジテレビの他の番組である『夜のヒットスタジオDELUXE』や『スターどっきり㊙報告』、他局人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)、『ザ・トップテン』(日本テレビ系)にも出演を果たし、さらにアイドル情報雑誌の『明星』『平凡』『DUNK』などにも登場して全国的な知名度も上がっていくようになる。

1985年9月、「セーラー服を脱がさないで」のヒットで軌道に乗ったおニャン子クラブから、そのメンバーのひとりであった河合その子が「涙の茉莉花LOVE」でメンバー初のソロデビューを果たす。オリコン週間チャートで初登場5位、翌週には1位を獲得。女性アイドルとしては薬師丸ひろ子以来となる、デビュー作チャート首位という快挙を成し遂げる[31]

翌10月には、そのメンバーから高井麻巳子(No.16)と岩井由紀子(ゆうゆ、No.19)のふたりで結成された初のグループ内ユニット、うしろゆびさされ組がフジテレビにおける新番組のアニメ『ハイスクール!奇面組』主題歌「うしろゆびさされ組」でデビューして、こちらもまたヒットして『夕やけニャンニャン』発のおニャン子クラブ関連曲は成功を収め続けた[31]。以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ、グループ内ユニットのシングル曲を続々と繰り出し、いずれもヒットを記録していった[32]

おニャン子クラブは、テレビ番組での歌唱にとどまらず、10月に日比谷野外音楽堂で初の有料コンサート「KICK OFF」を開催。フジテレビの関連会社、フジパシフィック音楽出版が運営する公式ファンクラブの「こニャン子クラブ」も発足し、最盛期で18万人の会員数が集まった。

また、おニャン子クラブが番組内でタイアップで着ていた、原宿ブティックセーラーズの服が番組の影響で爆発的に売れるという現象が起こった。それを参考に「Hip's road」というフジテレビによる独自ブランドを立ち上げ、グッズ販売だけで番組のスポンサー収入に匹敵する事業収益をあげるなど、おニャン子クラブは単なる番組企画的な存在から、フジテレビにおける収益事業のひとつに向けて変換されていく[33]

1986年(昭和61年)

1月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった新田恵利(No.4)が「冬のオペラグラス」でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する。新人女性歌手のデビュー曲初登場1位は初めての記録であった[34]。同月、フジテレビ単発ドラマ枠の「月曜ドラマランド」において、おニャン子クラブのメンバー初主演ドラマとなった福永恵規(No.11)主演『ボクの婚約者』放送。以後、同枠では月に一、二本のペースでおニャン子クラブのメンバーを主演に置いたものが放送されるようになっていく[35]

2月、おニャン子クラブ結成時からの人気メンバーであった国生さゆり(No.8)が「バレンタイン・キッス」で満を持してデビュー[36]。3月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった中島美春(No.5)が専門学校に進学するため、河合その子がソロ活動に専念するためにおニャン子クラブを脱退する。それを受けて、『夕やけニャンニャン』の番組内と同時期に開催されたおニャン子クラブのコンサートツアー最終公演でふたりの“卒業式”が執り行われ、華々しく送り出されていく。これが慣例となり、以後おニャン子クラブから脱退していく主要メンバーに対して、番組内とその同時期にあるコンサートツアー最終公演で“卒業式”が行われるようになっていく。現代において、モーニング娘。AKB48乃木坂46などのグループアイドルが採用している卒業システムは、おニャン子クラブがその先駆けである[37][38]

活動初期からの著名なメンバーが脱退していったものの、おニャン子クラブがブレイクした後に加入してきた渡辺美奈代(No.29)が7月にレコードデビューし[39]渡辺満里奈(No.36)も10月にレコードデビュー[40]、他にも工藤静香(No.38)、生稲晃子(No.40)ら、おニャン子クラブの中期から後期の人気を支え、その後も芸能界に残っていくメンバーが続々と加入してくるなど、おニャン子クラブの面子は日々充実していった。セールス面においても、1986年のオリコンシングル1位獲得46曲中、おニャン子クラブ関連が30曲獲り、52週中の36週でそれを記録するなど(1986年のオリコン週間シングルチャートを参照)、ヒットチャートの首位獲得率7割強という驚異のブームを巻き起こし[41]、「日本芸能界史上最大のヒット商品」と呼ばれるまでに至った[42]。人気歌手を抱える各プロダクションは、発売週がぶつかると必ず1位をおニャン子に取られてしまうため、「おニャン子がレコードを出す」と聞く度に発売日をずらす程であった[43]。おニャン子クラブ関連の連続リリースによりレコード店のシングル盤コーナーを訪れる客が増え、貸しレコードの普及などにより数年来低迷していたシングル盤市場が再び盛り上がりを見せたという分析もある[44]

一方でこの時期、おニャン子クラブ関連が毎週2~3組もランキングしていたTBSの『ザ・ベストテン』に、フジテレビと『夕やけニャンニャン』側は「順位が低い」とランキングについて異議を唱える。このランキングの見解を巡ったことによる双方の溝は埋まらなかった。7月からフジテレビと『夕やけニャンニャン』側は、おニャン子クラブ、ソロ、グループ内ユニット、そしておニャン子クラブから脱退したOGも含めた全ての出演を『ザ・ベストテン』に対してボイコットしていく。これは翌1987年4月まで半年以上にわたって長引いていくことになってしまった。

9月の番組内およびコンサートツアー最終公演で、新田恵利、名越美香(No.9)、福永恵規、吉沢秋絵(No.25)、山本スーザン久美子(No.32)の結成時からのメンバーを含む5名が卒業しておニャン子クラブを脱退[45]。それと前後して、集英社刊行の女性ファッション誌『Seventeen』主催のオーディション「ミス・セブンティーン」とコラボレーションした「ザ・スカウト アイドルを探せ!」によって選ばれた貝瀬典子(No.41)ら新世代のメンバーが大量に加入[45]。番組開始当初は毎日出演、この頃は週一でレギュラー出演していたとんねるず石橋貴明は、新メンバーの顔と名前が一致しないと嘆くようになる。

『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブは1986年前半から中盤に掛けては前年以上のブームを巻き起こしたのだが、後半である秋口あたりからブームの退潮が見られるようになっていく。8月末に全国公開された主演映画『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』が興行的に失敗に終わる。そして、5月からゴールデンタイム帯で放送されていた『夕やけニャンニャン』の姉妹番組『夕食ニャンニャン』もわずか4ヶ月後の9月で終了し、"異常ブームの終わり" "陰りが差したおニャン子"などと囁かれ[46]、本体の『夕やけニャンニャン』自体の視聴率もピークだった1986年初頭から下がり続けていった[47]。1986年の後半から荻野目洋子南野陽子などのおニャン子クラブ系以外のアイドル・タレントも活躍を示し、アイドル・マーケットもおニャン子クラブだけではなくなってきたことを示した[48]コラムニスト竹内義和は、河合その子や国生さゆり、新田恵利などピンでも人気の獲れるトップアイドルが集団になっていたのがおニャン子クラブの魅力であったが、そうした人気メンバーが次々卒業していったことが、グループとしての人気低下に繋がったと指摘した[49]

1987年(昭和62年)

3月の番組内および4月の春のコンサートツアー最終公演で、「セーラー服を脱がさないで」フロントボーカル4人のうち最後のひとりであった内海和子、初期メンバーであった樹原亜紀(No.6)、国生さゆり、立見里歌(No.15)、高井麻巳子が脱退[50]。5月、生稲晃子、工藤静香、斉藤満喜子(No.42)の3人で結成されたうしろ髪ひかれ隊がシングル「時の河を越えて」でデビューする。ヒットしたものの、これがグループ内ユニットの最後のものとなり、翌6月15日に『夕やけニャンニャン』内で番組の終了とおニャン子クラブの解散を告知する[51]。同時に、おニャン子クラブの新規メンバーを選ぶ番組内オーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」も終了となる。

8月21日、ラストシングル『ウェディングドレス』を発売。同月31日、『夕やけニャンニャン』が番組終了[52]。翌月9月20日の代々木第一体育館におけるコンサートにて解散した[52]。テレビ連動型のグループであったが故に、番組の終了と共に必然的に終止符が打たれてしまう定めであったが、約2年半での解散となった[29]。ヒットチャートを独占した前年ほどの勢いは無かったものの、まだまだ余力を残しての早過ぎる解散であった[53]

解散のタイミングについて秋元康は「ブームっていうのはこのままずっと終わらないんじゃないかなっていうのが大抵のパターン。だけど『夕やけニャンニャン』とかおニャン子クラブっていうのは、はじめから終わるに決まってるって誰もが分かってたブームなんですね。おニャン子クラブのメンバーも、つくってるわれわれもそれが分かってたから、無責任につくれたんです。だから、終わり方をどうするかっていうことに気を遣いました。まだまだいけるよって言われてるときに終わっとこうというのが、僕らなりの終わり方だったんです」と述べている[54]

おニャン子クラブ活動中にレコードデビューしていた者を中心に芸能事務所に所属していたメンバーは解散以降も芸能界に残れたが、それ以外のメンバーのマネージメントはフジテレビ預りであったため、活動続行不能となって同時に引退していった。なお、派生ユニットの「うしろ髪ひかれ隊」は、おニャン子クラブの解散後も活動を継続した。

解散後

1990年代に幾度か、「あの人は今」のような番組の企画で、芸能界に残っていた者、芸能界から引退していた者も含めた元メンバーを集め、時には「セーラー服を脱がさないで」を歌唱させ“再結成”と謳われもしたが、あくまでもその場限りであった。

1993年、『第35回日本レコード大賞』に作・編曲の佐藤準が編曲賞を受賞したために特別出演して「セーラー服を脱がさないで」を佐藤準の新アレンジでの披露で生歌唱出演した。その時のメンバーは岩井、内海、新田、斉藤、立見、白石の6名であった。

1995年9月、代々木野外ステージで開催されたファン主催の解散8周年ビデオコンサートに富川春美・宮野久美子がVTR出演を行った。

1996年9月、代々木野外ステージで開催されたファン主催の解散9周年ビデオコンサートに我妻佳代がVTR出演を行った。

1997年9月、代々木野外ステージで開催されたファン主催の解散10周年ビデオコンサートに立見里歌がVTR出演を行った。

2000年代

2001年9月、代々木野外ステージで開催されたファン主催の解散14周年ビデオコンサートに我妻佳代がゲスト出演を行った。

2002年9月、代々木野外ステージで開催されたファン主催の解散15周年ビデオコンサートに我妻佳代・杉浦美雪が参加した。

2002年、初期メンバーのうち賛同者のみの14名によって一時的に再結成し、シングル「ショーミキゲン」をリリースした。リリース後にはイベントやテレビ出演なども果たし、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では、後期メンバーを含めて「ショーミキゲン」と「セーラー服を脱がさないで」を歌唱した。また2010年にはテレビCM上で11名のメンバーが再結成し、「セーラー服を脱がさないで」のサビを俳優・伊藤淳史とともに歌い踊り、アラフォーになったおニャン子クラブの姿を披露した。

2005年秋、サンセイアールアンドディからパチンコ台「CRおニャン子クラブ」がリリースされた。ザ・ベストテンのランキング発表のような反転フラップ表示的な演出が特徴である。もっとも、視覚的には番組と同じなのはロゴとキャラクターの振り付けのみで、会員の実名は一切使われておらず、アニメ絵のキャラの顔も、特に会員に似せてはいない。登場キャラクターは全員学生服を着ているが、実際の番組では制服のまま出演することは許されなかった。

2010年代

2011年9月、渋谷BOXXで開催されたファン主催の解散24周年ビデオコンサートに国生さゆり・我妻佳代がゲスト出演を行った。

2012年9月、渋谷BOXXで開催されたファン主催の解散25周年ビデオコンサートに国生さゆり・渡辺美奈代がゲスト出演、新田恵利と城之内早苗がVTR出演を行った。

2013年9月、渋谷eggmanで開催されたファン主催の解散26周年ビデオコンサートに国生さゆりがVTR出演を行った。

2014年9月、渋谷eggmanで開催されたファン主催の解散27周年ビデオコンサートに国生さゆり・立見里歌・白石麻子がゲスト出演を行った。

2015年9月、渋谷eggmanで開催されたファン主催の解散28周年ビデオコンサートに国生さゆりがゲスト出演を行った。

2016年9月、渋谷eggmanで開催されたファン主催の解散29周年ビデオコンサートに国生さゆり・内海和子・布川智子・宮野久美子がゲスト出演を行った。

2017年9月18日、新宿LOFTにて開催された解散30周年ビデオコンサートの終了後に、国生さゆり・内海和子・富川春美・立見里歌・白石麻子・布川智子・岡本貴子・杉浦美雪・宮野久美子の9名がステージにてライブを行った。このイベントは解散翌年からファン有志(おニャン子クラブ FINAL LEGEND 実行委員会)が無償で主催してきた解散ビデオコンサートのスペシャル版として企画され、ファンの思いに賛同した元メンバーが無償で出演、会場のキャパいっぱいの約500名の観客を動員し、入場無料で開催された。

2018年7月7日正午から日本テレビ系の音楽特番『THE MUSIC DAY 2018 伝えたい歌』で、内海和子・国生さゆり・立見里歌・新田恵利・山本スーザン久美子・渡辺美奈代が出演した[55][56]

2020年代

2025年7月5日、世田谷区民会館内にある、せたがやイーグレットホールにて結成40周年コンサートが2時間に渡って行われ、新田恵利、樹原亜紀、富川春美、立見里歌、白石麻子、横田睦美、布川智子、我妻佳代、杉浦美雪が出演した。その他、名越美香、内海和子、城之内早苗、吉沢秋絵、山本スーザン久美子、生稲晃子がコメントを寄せ、観客席には岡本貴子が来場した。[57]

「乙女心の自由型」「NO MORE 恋愛ごっこ」「ウェディングドレス」「間に合うかもしれない」「かたつむりサンバ」を歌唱し、我妻、杉浦の2人で「うしろゆびさされ組」を歌唱した。制服の付け襟は当日までに杉浦が自身で作製した。我妻がソロで「ひとさし指のワイパー」「プライベートはデンジャラス」の2曲を歌唱。

白石と横田が「なぜ?の嵐」を歌唱。ニャンギラス結成39周年&立見里歌還暦スペシャルと題し、オリジナルTシャツを作成。Tシャツの後ろには結成日と4人の在住国を記載した。立見は赤いちゃんちゃんこを着て登場、「私は里歌ちゃん」「自分でゆーのもなんですけれど」を歌唱し、後ろのモニターには名越の写真が映し出された。立見のソロ曲「そんなつもりじゃなかったのに」では、立見の息子がバックダンサーとして参加した。[58]

新田がソロで「冬のオペラグラス」「恋のロープをほどかないで」「不思議な手品のように」の3曲を歌唱。

再び全員が黒地にスパンコールをあしらったセーラーズオリジナルのパーカーを着て登場し、「恋はくえすちょん」「お先に失礼」「おっとCHIKAN!」「真っ赤な自転車」「夏休みは終わらない」を歌唱。

最後に赤、青、緑、橙のセーラーズの半袖に着替え、「セーラー服を脱がさないで」を歌唱した。この曲の発売は1985年7月5日あり、40周年コンサートと同じ日にちであった。

アンコールではメンバーからの挨拶と、「じゃあね」を歌唱。最後にカウントダウンと共に観客全員から「おニャン子クラブありがとう!!」の紙がメンバーに向けられた。最後の最後に観客席から岡本が呼ばれ、ステージで挨拶をした。

この日は現役時代のシングルで唯一、「およしになってねTEACHER」が選曲から外れたが、歌唱した曲の殆どをフルコーラスで歌い上げた。このコンサートは、毎年9.20のファン集会を運営してきたFINAL LEGEND実行委員会を母体としたファン有志により、企画から開催までの全ての準備が行われた。公演の模様は、おニャン子クラブの歴史をなるべく完全な形で後世に残す事を目標として、放送用レベルの機材を多数用いて収録された。この映像は出演者と関係事務所の同意のもとにほぼ全編がYoutubeにて収益化せずに無償公開された。

メンバー

会員番号 名前 生年月日
(現年齢)
加入日 卒業/脱退日 所属事務所
(当時)
備 考
No. 1 奥田 美香
(おくだ みか)
1968年2月28日
(58歳)
1985年4月1日 1985年4月25日 ・週刊文春喫煙事件により脱退。
・脱退後はモデルとして活動。
・1988年に『プレイメイトジャパン』準ミスを獲得。
No. 2 榎田 道子
(えのきだ みちこ)
1967年5月4日
(59歳)
1985年4月1日 1985年4月25日 ・週刊文春喫煙事件により脱退。
・1997年にテレビ東京『ASAYAN』にて開催された
 「三井のリハウスレディ」オーディションに参加。
No. 3 吉野 佳代子
(よしの かよこ)
1967年4月3日
(59歳)
1985年4月1日 1985年4月25日 ・週刊文春喫煙事件により脱退。
No. 4 新田 恵利
(にった えり)
1968年3月17日
(58歳)
1985年4月1日 1986年9月26日 ボンド企画 ・第2回卒業生。
・卒業後も芸能活動を継続。
・1990年に芸能界を引退。
・1993年に芸能活動を再開、現在も活動中。
No. 5 中島 美春
(なかじま みはる)
1967年10月1日
(58歳)
1985年4月1日 1986年3月31日 ・第1回卒業生。
・歯科衛生士の専門学校へ進学する為に卒業。
・卒業と同時に芸能界も引退。
No. 6 樹原 亜紀
(きはら あき)
1969年3月30日
(57歳)
1985年4月1日 1987年3月30日 ・第5回卒業生。
ニャンギラスのメンバー。
・卒業と同時に芸能界も引退。
No. 7 友田麻美子
(ともだ まみこ)
1968年1月8日
(58歳)
1985年4月1日 1985年4月25日 ・週刊文春喫煙事件により脱退。
・脱退後はモデルとして活動。
・現在は芸能活動を再開し、活動中。
No. 8 国生 さゆり
(こくしょう さゆり)
1966年12月22日
(59歳)
1985年4月1日 1987年3月30日 エイプリル
ミュージック
・第5回卒業生。
・『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』内の
 「美少女コンテスト」において優勝を獲得。
・卒業後は女優・タレントとして現在も活動中。
No. 9 名越 美香
(なごや みか)
1966年4月13日
(60歳)
1985年4月1日 1986年9月26日 ・第2回卒業生。
ニャンギラスのメンバー。
・卒業後は舞台女優として活動後、芸能界を引退。
No.10 佐藤 真由美
(さとう まゆみ)
1967年9月25日
(58歳)
1985年4月1日 1985年4月25日 ・週刊文春喫煙事件により脱退。
No.11 福永 恵規
(ふくなが さとみ)
1967年1月26日
(59歳)
1985年4月1日 1986年9月26日 ボンド企画 ・第2回卒業生。
・卒業後も芸能活動を継続。
・1989年に芸能界を引退。
・1997年からプロダクションスタッフ勤務。
No.12 河合 その子
(かわい そのこ)
1965年6月20日
(61歳)
1985年4月5日 1986年3月31日 渡辺
プロダクション
・140点で合格
・第1回卒業生。
・卒業後も芸能活動を継続。
・1990年に芸能活動を休止。
・2010年に資生堂「IN&ON」のCMに出演。
No.13 内海 和子
(うつみ かずこ)
1967年2月16日
(59歳)
1985年4月5日 1987年3月30日 ホリプロ ・108点で合格
・第5回卒業生。
・元オールナイターズのメンバー。
・卒業後も芸能活動を継続。・1993年に芸能界を引退。
・2014年に芸能活動を再開。現在も活動中。
No.14 富川 春美
(とみかわ はるみ)
1968年9月26日
(57歳)
1985年4月5日 1987年9月20日 ・111点で合格
・解散時メンバー。
・在籍中にソロデビューが諸事情により中止になる。
・解散後もモデルとして活動後、芸能界を引退。
No.15 立見 里歌
(たつみ りか)
1965年11月14日
(60歳)
1985年4月19日 1987年3月30日 ・142点で合格
・第5回卒業生。
ニャンギラスのメンバー。
・元オールナイターズのメンバー。
・卒業と同時に芸能界も引退。
・2014年に芸能活動を再開。現在も活動中。
No.16 高井 麻巳子
(たかい まみこ)
1966年12月28日
(59歳)
1985年4月26日 1987年3月30日 田辺
エージェンシー
・117点で合格
・第5回卒業生。
うしろゆびさされ組のメンバー。
・卒業後も歌手・女優として芸能活動を継続。
・1988年に芸能界を引退。
No.17 城之内 早苗
(じょうのうち さなえ)
1968年5月17日
(58歳)
1985年5月10日 1987年9月20日 プロダクション
尾木
・105点で合格
・解散時メンバー。
・メンバー唯一の演歌歌手として現在も活動中。
No.18 永田 ルリ子
(ながた るりこ)
1967年6月23日
(59歳)
1985年5月17日 1987年9月20日 ・108点で合格
・解散時メンバー。
・解散と同時に芸能界を引退。
No.19 岩井 由紀子
(いわい ゆきこ)
1968年5月26日
(58歳)
1985年6月21日 1987年9月20日 渡辺
プロダクション
・102点で合格
・解散時メンバー。
うしろゆびさされ組のメンバー。
・解散後はバラドルとして芸能活動を継続。
・1997年に芸能界を引退。
No.20 寺本 容子
(てらもと ようこ)
1969年12月21日
(56歳)
1985年7月19日 1985年9月10日
[注 4]
・118点で合格
・番組の規定に違反し、脱退。[注 5]
・脱退後はモデルとして活動。
・1996年に芸能界を引退。
No.21 五味岡 たまき
(ごみおか たまき)
1970年1月19日
(56歳)
1985年7月26日 1985年9月20日
[注 6]
・120点で合格
・本人の意思による申し出により脱退。[注 7]
・脱退後はモデル・タレントとして活動。
・1988年にソロでのレコードデビューが中止となる。
・1990年に芸能界を引退。
No.22 白石 麻子
(しらいし まこ)
1969年6月12日
(57歳)
1985年7月26日 1987年9月20日 ・101点で合格
・解散時メンバー。
ニャンギラスのメンバー。
・解散と同時に芸能界を引退。
No.23 林 香織
(はやし かおり)
1969年2月8日
(57歳)
1985年8月2日 1986年3月27日 ・112点で合格
・大阪駐在員。
・卒業と同時に芸能界を引退。
・化粧品メーカー・マックスファクターP&Gに就職。
No.24 三田 文代
(みた ふみよ)
1967年1月6日
(59歳)
1985年8月16日 1986年3月27日 ・116点で合格
・広島駐在員。
・元モモコクラブ(桃組出席番号611番)
・卒業後はモデル・女優として現在も活動中。
No.25 吉沢 秋絵
(よしざわ あきえ)
1968年10月20日
(57歳)
1985年8月30日 1986年9月26日 田辺
エージェンシー
・111点で合格
・第2回卒業生。
・「スケバン刑事II」とのタイアップ企画で合格。
・卒業後も歌手・タレントとして芸能活動を継続。
・1991年に芸能界を引退。
No.26 赤坂 芳恵
(あかさか よしえ)
1968年7月20日
(57歳)
1985年9月27日 1985年10月4日 ・107点で合格
・元モモコクラブ(桃組出席番号2142番)
・学校側に無断で出演していたことが発覚し
 在籍期間一週間で脱退。[注 8]
・脱退後はモデルとして活動。
・1994年に芸能界を引退。
No.27 松本 亜紀
(まつもと あき)
1969年11月23日
(56歳)
1985年10月25日 1985年10月25日 ・101点で合格
・元モモコクラブ(桃組出席番号1861番)
・学校側に無断で出演していたことが発覚し、
 合格のみで活動がないまま脱退。[注 9]
・脱退後はタレントとして活動後、芸能界を引退。
No.28 横田 睦美
(よこた むつみ)
1967年9月26日
(58歳)
1985年11月29日 1987年9月20日 ・129点で合格
・解散時メンバー。
ヤンパライメージガールコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。
・解散後はタレント・女優として活動後、芸能界を引退。
No.29 渡辺 美奈代
(わたなべ みなよ)
1969年9月28日
(56歳)
1985年11月29日 1987年9月20日 バーニング
プロダクション
・109点で合格
・解散時メンバー。
ヤンパライメージガールコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。
・解散後は歌手・タレントとして現在も活動中。
No.30 三上 千晶
(みかみ ちあき)
1969年6月28日
(57歳)
1985年11月29日 1986年3月-日 ・101点で合格
・2度目の出場で合格。
ヤンパライメージガールコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。
・本人からの申し出により脱退。[注 7]
トライアングル・ブルーのオーディションにも合格。
No.31 矢島 裕子
(やじま ゆうこ)
1968年12月15日
(57歳)
1985年11月29日 1986年2月-日 ・100点で合格
・本人からの申し出により脱退。[注 7]
ヤンパライメージガールコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。
No.32 山本スーザン久美子
(やまもと すーざん くみこ)
1966年6月26日
(60歳)
1985年12月13日 1986年9月26日 ・102点で合格
・第2回卒業生。
・卒業と同時に芸能界を引退。
No.33 布川 智子
(ふかわ ともこ)
1968年8月30日
(57歳)
1986年1月17日 1987年9月20日 ・105点で合格
・解散時メンバー。
シブがき隊布川敏和の実妹。
・解散と同時に芸能界を引退。
・2011年に芸能活動を再開。現在も活動中。
No.34 弓岡 真美
(ゆみおか まみ)
1970年9月15日
(55歳)
1986年1月10日 1986年12月25日 ・114点で合格
・第3回卒業生。
・中学業後の1986年3月14日から活動。
・卒業後はモデルとして活動後、芸能界を引退。
No.35 岡本 貴子
(おかもと たかこ)
1971年3月16日
(55歳)
1986年1月10日 1986年12月25日 ・101点で合格
・第3回卒業生。
・中学卒業後の1986年3月14日から活動。
・卒業と同時に芸能界を引退。
No.36 渡辺 満里奈
(わたなべ まりな)
1970年11月18日
(55歳)
1986年3月27日 1987年9月20日 エイプリル
ミュージック
・120点で合格
・解散時メンバー。
・解散後は歌手・タレントとして現在も活動中。
No.37 大貫 かおり
(おおぬき かおり)
1970年5月17日
(56歳)
1986年5月9日 1986年9月-日 ・101点で合格
・元モモコクラブ(桃組出席番号1809番)
・合格後の活動は番組への出演1日のみで脱退。[注 10]
・脱退後はモデル・タレントとして現在も活動中。
No.38 工藤 静香
(くどう しずか)
1970年4月14日
(56歳)
1986年5月23日 1987年9月20日 プロダクション
尾木
・105点で合格
・解散時メンバー。
うしろ髪ひかれ隊のメンバー。
・元モモコクラブ(桃組出席番号480番)
・元セブンティーンクラブのメンバー。
・解散後は歌手として現在も活動中。
No.39 高畠 真紀
(たかばたけ まき)
1968年4月21日
(58歳)
1986年5月30日 1986年12月25日 ・100点で合格
・第3回卒業生。
・卒業後はモデルとして活動後、芸能界を引退。
No.40 生稲 晃子
(いくいな あきこ)
1968年4月28日
(58歳)
1986年6月13日 1987年9月20日 プロダクション
尾木
・113点で合格
・解散時メンバー。
うしろ髪ひかれ隊のメンバー。
・解散後は女優・タレントとして活動。
・2022年に参議院議員選挙へ立候補し当選。
No.41 貝瀬 典子
(かいせ のりこ)
1970年3月5日
(56歳)
1986年8月10日 1987年9月20日 ・解散時メンバー。
ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。グランプリを受賞。
・解散後はモデルとして活動後、芸能界を引退。
No.42 斉藤 満喜子
(さいとう まきこ)
1970年9月19日
(55歳)
1986年8月10日 1987年9月20日 プロダクション
尾木
・解散時メンバー。
・ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。凖グランプリを受賞。
うしろ髪ひかれ隊のメンバー。
・解散後は歌手・タレントとして芸能活動を継続。
・1998年に芸能界を引退。
No.43 守屋 寿恵
(もりや としえ)
1970年6月11日
(56歳)
1986年8月10日 1987年3月20日 ・第4回卒業生。
・ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。準グランプリを受賞。
・卒業後はモデルとして活動後、芸能界を引退。
・1988年、ソロでのレコードデビューが中止となる。
No.44 高田 尚子
(たかだ なおこ)
1970年8月29日
(55歳)
1986年8月10日 1987年3月20日 ・第4回卒業生。
・ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。特別賞を受賞。
・卒業と同時に芸能界を引退。
No.45 吉田 裕美子
(よしだ ゆみこ)
1971年1月3日
(55歳)
1986年9月19日 1987年3月20日 ・101点で合格
・第4回卒業生。
・卒業後はモデルとして活動後、芸能界を引退。
・ソロデビューの予定があったが中止となる。
No.46 中島 早苗
(なかじま さなえ)
1970年10月27日
(55歳)
1986年9月25日 1987年3月20日 ・101点で合格
・第4回卒業生。
・元モモコクラブ(桃組出席番号1319番)
ヤンパライメージガールコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。
・卒業後はモデルとして活動後、芸能界を引退。
・子役出身で加入前から活動。
No.47 山森 由里子
(やまもり ゆりこ)
1970年10月27日
(55歳)
1986年10月24日 1987年9月20日 ・105点で合格
・解散時メンバー。
・2度目の出場で合格。
・解散と同時に芸能界を引退。
No.48 我妻 佳代
(あがつま かよ)
1968年7月25日
(57歳)
1987年1月23日 1987年9月20日 ・102点で合格
・解散時メンバー。
・元モモコクラブ(桃組出席番号368番)
・解散後の1987年にソロデビュー。1989年に引退。
芹沢直美の実妹。
No.49
(B組1番)
吉見 美津子
(よしみ みつこ)
1971年12月25日
(54歳)
1986年8月10日 1987年9月20日 ・解散時メンバー。
・ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。特別賞を受賞。
・1987年4月にB組から本体のメンバーへ昇格。
・元モモコクラブ(桃組出席番号1956番)
・解散後はモデル・女優として活動後、芸能界を引退。
No.50
(B組2番)
杉浦 美雪
(すぎうら みゆき)
1971年10月14日
(54歳)
1986年8月10日 1987年9月20日 ・解散時メンバー。
・ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。特別賞を受賞。
・1987年4月にB組から本体のメンバーへ昇格。
・解散後はタレント・レースクイーンとして活動。
・現在はモデルとして活動中。
No.51
(B組3番)
宮野 久美子
(みやの くみこ)
1971年12月13日
(54歳)
1986年8月10日 1987年9月20日 ・解散時メンバー。
・ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。特別賞を受賞。
・1987年4月にB組から本体のメンバーへ昇格。
・解散後は名古屋のタレントとして現在も活動中。
No.52 鈴木 和佳子
(すずき わかこ)
1969年1月26日
(57歳)
1987年4月17日 1987年9月20日 ・102点で合格
・解散時メンバー。
・解散後はモデルとして活動後、芸能界を引退。
B組4番 冨永 浩子
(とみなが ひろこ)
1971年5月31日
(55歳)
1986年8月10日 1987年3月20日 ・第4回卒業生。
・ミス・セブンティーンコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。特別賞を受賞。
・卒業と同時に芸能界を引退。
B組5番 山崎 真由美
(やまざき まゆみ)
1971年12月1日
(54歳)
1986年9月25日 1987年3月20日 ・100点で合格
・第4回卒業生。
ヤンパライメージガールコンテストとのタイアップ企画
 オーディションにて合格。
・卒業後の1988年にソロデビュー。
・グラビアモデルへ転身後、1994年に引退。
研修生 ヨリンダ・ヤン
(よりんだ やん)
1969年7月14日
(56歳)
1987年7月13日 1987年7月31日 ・おニャン子研修生。唯一の外国人(香港人)。
・現在は香港で歌手・女優として活動中。

派生ユニット

ユニット名メンバー活動期間備考
うしろゆびさされ組 会員番号16番 高井 麻巳子
会員番号19番 岩井 由紀子
1985年 - 1987年 ・高井のおニャン子クラブ卒業に伴い、解散。
ニャンギラス 会員番号06番 樹原 亜紀
会員番号09番 名越 美香
会員番号15番 立見 里歌
会員番号22番 白石 麻子
1986年 ・名越のおニャン子クラブ卒業に伴い、解散。
うしろ髪ひかれ隊 会員番号38番 工藤 静香
会員番号40番 生稲 晃子
会員番号42番 斉藤 満喜子
1987年 - 1988年 ・おニャン子クラブ解散後もグループ活動を継続。
・1988年に活動休止。
おニャン子クラブ B組 会員番号B組1番 吉見 美津子
会員番号B組2番 杉浦 美雪
会員番号B組3番 宮野 久美子
会員番号B組4番 冨永 浩子
会員番号B組5番 山崎 真由美
1987年 ・当初5人でのデビューが予定されていたが、冨永と山崎が卒業。
 その後、吉見・杉浦・宮野の3人によるデビューが再計画されたが、
 おニャン子クラブの解散により中止になった。
・未発表曲「いつだってイレギュラー」(1987年6月15日発売予定→中止)

特徴

プロデュース戦略

おニャン子クラブのプロモーションに関するフジテレビ(JOCX)のメディア戦略は『CX銀河計画』[注 11]と称され、テレビ的なメイキング感覚を巧みに利用した疑似イベント化により、番組の視聴者を巻き込みながら、フジテレビ自らがアイドルを作るという戦略をとった[59][60][61]。番組内のオーディションから新人を発掘するというシステムであったが、かつての『スター誕生!』との相違点は、フジテレビ自体がマネージメントのイニシアティブを握った点で、その意味でおニャン子クラブは、テレビが生み育てた「純正テレビアイドル」となった[62]。コアターゲットは10代の男子中高生であったが、世代を超えて多くの支持を集めた[63]。歌手という制約を設けた場合、とてもレコードが出せるレベルではないメンバーも中には居たが、音楽番組『ミュージックフェア』も担当したプロデューサーの石田弘は、アイドルと歌手は別問題であるとし、次のように語った。

おニャン子としての活動
  • 『夕やけニャンニャン』の番組内ではアシスタントやコーナー説明を当番制で行っていた。時にロケに出ることもあった。
  • 本業は高校生であるとメンバーもスタッフも強く認識しており、テスト期間中などは番組を休んでもよいことになっていた(一週間前後のことが多かったが、大学受験を控えたメンバーは1ヶ月以上番組に出演しないこともあった)。また、普段も宿題を楽屋に持ち込んでメンバー同士で教えあったり、番組スタッフに勉強を見てもらうことも頻繁にあった[65]
  • おニャン子クラブのメンバーは原則生放送である『夕やけニャンニャン』の出演に際して、大半は高校生大学生などの学生であったことから各々の定期試験中は番組出演を控え欠席した。また、番組側が斡旋した仕事(ドラマ撮影など)での欠席もあった。そのため、『夕やけニャンニャン』を含めて、おニャン子クラブ名義の活動は必ずしもメンバー全員が揃っていたわけではなかった。
メンバーの選出方法
  • オーディションは、月曜日に始まる自己紹介から金曜日の最終日までの5日間、5人で競い合い、その間毎日番組に登場して課題をこなさなければならなかった。
  • オーディションを受けたメンバーのなかには、芸能事務所やレコード会社に在籍していたメンバーもいる。ソロデビューを視野に入れた売込みの戦略のひとつで、オーディションに出場・合格させて観客や視聴者に「原石を見つけた」と注目させる目的であった[注 12]
  • オーディション合格後も(芸能事務所に所属していたメンバーを除いて)、メンバーは、フジテレビ局預かりとされ、芸能事務所無所属の正真正銘の素人集団であった。その為、大部分のメンバーが番組終了と同時に解散したおニャン子クラブと共に、一般人として各々の生活に戻った。しかし2014年現在、一般生活に戻っていることが確認できるのは15名のみであり、芸能事務所に所属していない残りの25名は消息不明の状態となっている[66]。芸能活動が続行出来たのは、その時点で芸能事務所に所属していた10人前後の者に限られた。

なお、上記のオーディションは形式上は審査員の合議で決められているとされていたが、ディレクターの笠井一二は稲増龍夫のインタビューの中で、メンバーは全て自分が決定していたと述べている。

稲増「おニャン子のオーディションというのは、あれは出来レースだったんですか。」

笠井「視聴者の評価を参考にして全部自分で決めていました。こういう子がいないからこういう子を選ぶとか。美形が欲しいから美形はどうかとか。たとえば、河合その子が卒業したら、河合その子みたいな子を二人入れるとか。いわば補充ですよ、クラスの。すごいアクの強い子もほしいし、生意気なのもほしいし、おとなしいのもほしいし、アイドルっぽいのもほしいし、そういうふうで、いつも補充と入れ替えをやって、三ヶ月くらい見てて、だめだったらそのまま出しちゃうという。」『増補 アイドル工学』 第5章 TVメディアが作ったアイドルシステム[67]

また番組スタッフは書籍の中で「まずはきはきしない子は落とす。びっクリするような美人は落とす。」と語っている[68]

会員番号制度

おニャン子クラブのメンバーには会員番号が与えられ、『夕やけニャンニャン』内であろうと他局の番組であろうと、自己紹介の際には必ず名前の前に「おニャン子クラブ会員番号××番」を付けて名乗っていた[注 13]。そのため、解散後も芸能界に残るなどした著名なメンバーは名前とともに会員番号もセットにして覚えられている。会員番号の振り分けは、結成時の11人はくじ引き順で、それ以後は加入順(加入が同時の場合はエントリーNo.順)である。脱退した者の番号については欠番とした。解散時、会員番号は52番まで行っていた。

反復露出の効用

おニャン子クラブは『夕やけニャンニャン』により、週一回ではなく月曜から金曜までの帯、という反復ができるという大きな力を持ちえた結果、従来ラジオや有線で曲を知り、テレビで確認する、というレコード購買者の行動パターンを、テレビで知って、テレビで確認し、レコードを買いに行く、という形に変化させた。『夕ニャン』がラジオ的機能を果たした結果、ヒット曲が次々と生み出されることとなった[69]。また、『夕やけニャンニャン』のみならず、『夜のヒットスタジオ』『月曜ドラマランド』『ハイスクール!奇面組』『なるほど!ザ・ワールド』などフジテレビの各種番組が様々な形でおニャン子のレコードの露出に当たったことも、ヒットのスケールを大きくするのに役立った[70]

多品種少量の時代のアイドル

おニャン子クラブではビッグアイドルを作らず、クラブのメンバーの誰かのファンになってもらえばいいというスタイルをとった。社会学者の小川博司は、これは成熟した消費社会における少量多品種のマーケティングそのままであると指摘し、次のように評した。

「夕やけニャンニャン」は一つの番組だけで、アイドルのカタログとなっていた。おニャン子のメンバーは、おニャン子クラブの中で、メンバー相互の差異において、個性を析出させるのである。小川博司、『音楽する社会』[71]