ラマナ・マハルシ(サンスクリット語発音:[Ramaṇa Maharṣi]、タミル語:இரமண மஹரிஷி、1879年12月30日 - 1950年4月14日)は、インドのヒンドゥー教の賢者であり、ジーヴァンムクタ(生きながら解脱した者)と広く知られる。ヴェンカタラーマン・アイヤールとして生まれ、後にはバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの名で世界に広く知られている。

1879年、インド、タミル・ナードゥ州ティルチュリに生まれる。ヴェンカタラーマンの人生の転機は、1896年7月中旬、16歳のときにマドゥライの叔父の家にて突然訪れた。ある午後、明確な理由もなく激しい死の恐怖に圧倒された彼は、その場で一人、この問題に向き合った。

「死がやってきた。死ぬのはこの身体だ」。彼は手足を硬く伸ばして死体を模倣し、息を殺して探求を深めた。「身体は死ぬ。だが、それを超越した霊性は死によって触れられることはない。それゆえ、私は不滅の霊性なのだ」。これは思考の産物ではなく、直接認識された生きた真理であった。その瞬間から死の恐怖は永遠に消え失せ、真我への没入は揺るぎないものとなった。他の想念は来ては去るが、「私」はシュルティ音のようにすべての根底にあった。

『ラマナ・マハルシの伝記』より抜粋

この体験はラマナ・マハルシの真我実現の契機であると帰依者たちに見なされている。それから六週間後、彼はマドゥライを離れ、タミル・ナードゥ州ティルヴァンナーマライにある聖山アルナーチャラへと旅立った。そこで彼は持っていたお金と持ち物をすべて放棄し、その生涯をアルナーチャラの麓で過ごした。

彼のもとには真理の探究者や帰依者たちが、そのダルシャン(聖者との謁見)を求めて訪れた。やがて周囲にアーシュラムが形成され、訪問者たちはサットサンガ——師の沈黙の臨在のもとに坐することや問答を通じて霊的指導を受けた。1930年代以降、多くの西洋人が訪れ、その教えは世界中へと伝わっていった。

ラマナ・マハルシは、真理を言葉で表すことはできないとして、その沈黙の臨在を通して人々を導いた。しかし言葉による教えを求める者には、「私は誰か?」と自らに問うジニャーナ(真我探究)と、バクティ(帰依・信愛・明け渡し)の二つの道を示した。その教えはアドヴァイタ(不二一元論)の哲学と軌を一にするが、彼自身は哲学的思索からではなく、自らの真我実現の境地から当意即妙に語った。

伝記

ティルチュリの寺院

幼少期(1879-1895年)

ラマナ・マハルシは、1879年12月30日、タミル・ナードゥ州ヴィルドゥナーガル県ティルチュリ村にて、ヴェンカタラーマン・アイヤールとして生まれた。敬虔なヒンドゥー教バラモン家系の四人兄弟の次男であり、父スンダラム・アイヤール(1848-1890)は法廷弁護士を務めた。母はアラガンマル(1864-1922)。兄ナーガスワミ、弟ナーガスンダラム、妹アラメールがいた。

7歳のとき、ヴェンカタラーマンはウパナヤナ(上位三ヴァルナが受ける伝統的入門儀式)を受けた。記憶力に非常に優れ、また異常なほど深く眠り、大きな物音にも、体を揺すられても目覚めないほどであったという。12歳頃には、自然に深い瞑想状態に入ることもあったと伝えられている。

11歳のとき、叔父スッバアイヤールのいるディンディグルへ移った。1891年、兄ナーガスワミとともにマドゥライへ移住。翌1892年2月18日、父スンダラムが急逝し、兄弟は引き続き叔父のもとで暮らすこととなった。

青年期

ヴェンカタラーマン(1902年、アルナーチャラにて)

マドゥライでは、スコット中学校を経てアメリカン・ミッション高校に学び、キリスト教にも触れた。

1895年11月、ヴェンカタラーマンは聖山アルナーチャラが実在する場所であることを知り、深い感動を覚えた。同じ頃、63人のナーヤンマールの聖伝を記したセッキラールの『ペリヤプラーナム』を読み、「神との合一」が可能であることを知った。

1896年7月、16歳のとき、突然の死の恐怖が彼を襲った。身体が硬直する中、ある「流れ」あるいは「力」(アヴェーシャム)が彼を捉えた。「死ぬのは何か?」という真我探究が始まり、「死ぬのは身体であり、真我は死なない」と認識し、真我実現に至る。

「見る者は誰か?」と内面を探究すると、見る者は消え去り、永遠なる存在だけが残った。「私は見た」という想念も、「私は見なかった」という想念も、ついに起こらなかった。シュリー・アルナーチャラに捧げる八連の詩

この覚醒ののち、学業や友人への関心は失われた。毎日ミーナークシ寺院に通い、ナーヤンマールやナタラージャの像の前で法悦に浸った。

1896年8月29日、授業があると兄に告げて密かに家を出た。そして9月1日、ティルヴァンナーマライに到着し、生涯その地を離れることはなかった。

アルナーチャレーシュワラ寺院(1896-1897年)

アルナーチャレーシュワラ寺院(1896-1897年)

ティルヴァンナーマライに到着したマハルシは、足取り早く歓びに胸を躍らせ、脇目も振らずに大寺院へと急いだ。三重に囲まれた高い壁の門も、内奥の神殿の扉も、無言の歓迎の意を表して、彼に向かって大きく開かれていた。最も神聖な内奥の神殿には他に誰もいなかった。ひとり神殿に入ると、彼は父アルナーチャレーシュヴァラ神の前に立った。このとき至福の合一の中で探求は達成された。ついに旅は終わったのである。

『ラマナ・マハルシの伝記』より抜粋

マハルシは千本柱廊のホールに数週間滞在する。その後、寺院内の各所を転々とし、やがて誰にも邪魔されることなくサマーディに没入できるパーターラ・リンガムの地下室に落ち着いた。そこで彼は大腿部が虫に噛まれても気づかぬほど深いサマーディに沈んでいた。地元の聖者セーシャドリ・スワミガルが彼を発見し、保護しようとした。約六週間後、地下室から運び出された彼は、次の二ヶ月をスブラマニヤ神殿で過ごした。彼は不動のままサマーディの中に坐り続けた。食事が供されてもまったく気づかないため、半液体状のコップ一杯の食べ物を彼の口に注ぎ込むようにしなければならなかった。

グルムールタム寺院(1897-1898年)

1897年2月、到着から六ヶ月後、マハルシは大寺院から約1マイル離れたグルムールタム寺院へ移った。間もなくパラニスワミという修行者が彼のもとを訪れ、そのダルシャンで深い平安と法悦を得た彼は、以後マハルシの終身の従者となり、托鉢・炊事・身の回りの世話のすべてを担った。

この時期、マハルシは身体を顧みず、絶え間なく噛む蟻にも無頓着であった。独居を望みながらも、その沈黙と苦行の噂を聞きつけた人々が次第に集まり始め、やがて彼を守るための竹垣が作られた。

グルムールタム滞在中、家族に居場所が知られた。叔父ネッリヤッパ・アイヤールが訪れ、修行の妨げはしないと約束して帰還を懇願したが、マハルシは微動だにせず、叔父はついに諦めて帰った。

1898年9月、マハルシはアルナーチャラ東麓の岩山パヴァラクンドゥルにあるシヴァ寺院へと移った。母の懇願にも応じることなく、彼は山を下りることを拒んだ。

アルナーチャラの洞窟(1899-1922年)

聖山アルナーチャラ
生きとし生けるものの蓮華のハートの内奥で、パラマートマンとして輝く絶対意識、それがアルナーチャラ・ラマナである。彼への愛で心が溶け去り、最愛の彼の宿るハートの内奥にたどり着いたとき、純粋な知性の目は開き、アルナーチャラ・ラマナは純粋意識として姿を顕わす。『アルナーチャラ・ラマナ』Collected Worksより

1899年2月、マハルシは山麓を離れ、アルナーチャラの山中へと移った。サットグル洞窟、グハ・ナマシヴァーヤ洞窟に短期間滞在した後、ヴィルーパークシャ洞窟を住処と定め、以後17年間をそこで過ごした。夏季はマンゴー樹の洞窟で過ごし、ペスト流行の時期の六ヶ月間はパチャイアンマン神殿に身を寄せた。

1902年、シヴァプラカーシャム・ピッライという官吏が若き聖者を訪ね、真我とは何かを知る方法について尋ねた。当時沈黙を保っていたマハルシは、砂の上に指で答えを書き、それを手で払うと、次の答えを書いた。この問答がマハルシの真我探究の教えの最初の記録となり、後に『私は誰か?』という小冊子として出版された。

1907年、ヴェーダや聖典に精通した高名なサンスクリット語の詩聖カーヴィヤカンタ・ガナパティ・シャーストリーが訪れ、真我探究の教えを受けた。深く感動した彼はヴェンカタラーマンを賢者「バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ」と宣言し、この名が広く浸透するようになった。

1911年、インドに赴任中の警察官フランク・ハンフリーズがマハルシを訪れ、西洋人として初めてその存在を世界に伝えた。彼の記事は1913年に『インターナショナル・サイキック・ガゼット(国際霊性公報)』誌に掲載された。

1912年、弟子たちと共に山上を歩いていた際、マハルシは突然発作に見舞われた。視野が白い光の幕で覆われ、心臓と呼吸が止まり、皮膚が蒼白に変じた。十五分ほど後、全身に衝撃が走り、息を吹き返した。マハルシ自身は後にこれを意図せず起きた発作であったと説明している。オズボーンはこの出来事を「マハルシが完全な外的正常状態へと回帰した最終的な完成の時」と記し、深いサマーディへの没入から、努力を要さず自然に真我として在り続け、日常の世界の中で自然に機能できる境地——サハジャ・サマーディ——への移行と見なしている。

1916年、母アラガンマルと弟ナーガスンダラムがティルヴァンナーマライに移り住み、マハルシとともにスカンダアシュラマム洞窟へと移った。母はサンニャーシーとして修行の道に入り、アーシュラムの炊事を取り仕切りながらマハルシの直接指導を受けた。弟は出家してニランジャナーナンダの名を授かるが、チンナスワミという愛称で知られるようになった。

この時期、マハルシはその生涯の詩的頂点をなす『アルナーチャラへの五つの讃歌』を著した。その第一作『アクシャラ・マナ・マーライ(文字の結婚花輪)』はタミル語で書かれ、個の魂と神との合一を豊かな象徴をもって詠い上げた名作である。

1920年頃から母アラガンマルの健康は次第に衰え始めた。1922年5月19日、マハルシは右手を彼女のハートに、左手を頭に置き、静かに傍らに寄り添い続けた。その祝福の手に守られながら、アラガンマルは身体を離れた。『ラマナ・マハルシの伝記』には、マハルシがこの瞬間にアラガンマルは真我を実現したと述べたことが記されている。

アーシュラムの創設(1922-1930年)

シュリー・ラマナアシュラマムの正門

1922年、マハルシは、山の南麓にある母の墓廟へスカンダアシュラマムから足繁く通っていたが、その年の12月を境に山を下り、アルナーチャラの麓に永住した。やがて母の墓廟のほとりにはシュリー・ラマナアシュラマムが自然と形成され、マハルシは1950年の入寂までそこに暮らした。

当初は墓廟の傍らに小屋が一棟あるのみであったが、1924年にはさらに二棟が建てられ、1928年には「旧ホール」が完成し、マハルシは1949年までそこで起居した。アーシュラムはその後、図書館、病院、郵便局などを備えた共同体へと発展した。マハルシ自身も建設計画に非凡な才を発揮し、1938年までアンナーマライ・スワミが直接の指示を受けながら諸事業を監督した。

西洋への伝播(1930-1940年)

ラマナ・マハルシ(1948年、G.G.ウェリング撮影)

1931年、B・V・ナラシンハによる伝記『真我実現——ラマナ・マハルシの生涯と教え』が出版された。さらに1934年、1931年1月にマハルシを初めて訪れたポール・ブラントンが『秘められたインド』を刊行し、マハルシの名は国内外に広く知られるようになった。

この書はベストセラーとなり、パラマハンサ・ヨーガーナンダ他の高名なグルたちに加え、サマーセット・モームなど多くの西洋人がアーシュラムを訪れるきっかけとなった。モームの1944年の小説『剃刀の刃』の霊的導師像はマハルシをモデルにしたとされる。また、アーサー・オズボーンもこの縁で訪れ、後にアーシュラム発行の季刊誌『マウンテン・パス』の初代編集長を務めた。

晩年(1940-1950年)

マハルシの入寂の地(ティルヴァンナーマライ)

1948年11月、マハルシの腕に小さな癌性の腫瘍が発見され、翌1949年2月にアーシュラムの医師により摘出された。しかし間もなく再発し、3月には著名な外科医によりラジウムを用いた手術が施された。医師は命を救うためには肩までの切断が必要と告げたが、マハルシはこれを退けた。同年8月と12月にも手術が行われたが、いずれも身体を衰弱させるのみであった。

治療が絶望的であることを宣言され、何の治療を試みるべきかとマハルシ自身が尋ねられた。彼は言った。「私がいままで何かの治療を頼んだかね? 私にあれやこれをしたいと願ったのはあなたたちなのだ。だからあなたたちの間で決めなさい。もし私が尋ねられたなら、はじめから言っているように、何の治療も必要ないのだ。物事が起こるがままにさせなさい」

1950年3月末、医師たちはすべての治療を断念した。「どうぞご自身をご自身で癒してください」と懇願する帰依者たちに、マハルシはこう応えたと伝えられている。「なぜそれほどこの身体に執着するのか。手放しなさい」、「私がどこへ行くというのか。私はここにいる」

1950年4月、マハルシはホールへ出る力も失い、面会時間は厳しく制限された。帰依者たちは彼が最後の日々を過ごす小部屋の前を静かに通り過ぎながら、その面影を目に刻んだ。同年4月14日午後8時47分、マハルシは静かに肉体を離れた。その瞬間、巨大な流れ星が輝く尾を引きながら、ゆっくりと空を横切っていくのが見られた。それは北東へアルナーチャラの頂上に向かって消えていった。[1]

帰依者

インド人帰依者

ラマナ・マハルシ(1948年、G.G.ウェリング撮影)

主要な帰依者を以下に挙げる(詳細はV・ガネーシャンの『ラマナ・ペリヤ・プラーナム』を参照)。

  • ガナパティ・ムニ(1878–1936)、サンスクリット学者・詩人、インド独立運動の活動家であり、ラマナ・マハルシの最も重要な帰依者の一人。「バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ」という名を捧げたのはムニである。
  • アンナーマライ・スワミ、22歳でラマナ・マハルシのもとを訪れ、バガヴァーンの指導のもと、ラマナアシュラマムの建物の建設を監督した。バガヴァーンの恩寵と自らの厳格なサーダナーによって真我実現した。
  • H・W・L・プンジャジ、1944年、北インドよりマハルシを訪れ、彼の臨在のもとで真我実現する。後に北インドにてサットサンを開き、世界中から訪れる真理の探究者にマハルシの教えを広めた。
  • スワミ・ラームダースは1922年の巡礼中にラマナ・マハルシを訪れ、ダルシャンの後、アルナーチャラの洞窟にこもって21日間の独居瞑想を行った。その後、「すべてはラーマ神であり、ラーマ神以外は何も存在しない」という神の実現に至る。
  • シュリー・ムルガナール(1890–1973)、ラマナ・マハルシの最も重要な帰依者の一人であり、「バガヴァーンの影」と広く見なされている。バガヴァーンとその教えを讃える数万篇の詩を著し、その多くにバガヴァーンから授けられた真我の直接体験への感謝が表されている 

西洋人帰依者

その著作によってマハルシの名を西洋に広めた英国人作家。
英国人、アーシュラムの機関誌『マウンテン・パス』初代編集長。
ポーランド系ユダヤ人の技術者・人道主義者。後にニサルガダッタ・マハラジの『I AM THAT 私は在る』をマラーティー語から英語に翻訳した。『マハルシの福音』(1939年)に収められた多くの問答は彼の問いから生まれたものである。

霊的指導

真我

マハルシは「すべては真我によってなされており、私によってなされるのではない」と説いた。この真我を表すのに、サット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)、ブラフマン、シヴァ、ハートなどの言葉が用いられた。

沈黙

沈黙こそが真の教えであり、それは最も熟達した求道者にのみ適している。他の者たちには言葉が必要だが、真理は言葉を超えている。言葉は、ただそれを指し示すことができるにすぎない。

真我探究

真我探究(ヴィチャーラ)とは、「私は誰か?」という問いによって、「私」という想念、あるいは「私」という感覚が起こる源に気づきを向け、その源にとどまることで、「私」という想念はやがて消え去り、「私ー私」という真我の輝きが顕れる。この気づきの中に留まることで、ヴァーサナー(心の潜在的傾向)が次第に滅尽し、ついに「私」という想念が完全に消滅する。それが真我実現、すなわち解脱である。

帰依、信愛、明け渡し

マハルシは真我探究の道と明け渡しの道を同一のものであると説いた。ジニャーナとバクティは別々の道ではなく、共に気づきを自己存在の源へと向かわせ、そこで私という想念を完全に消し去るのである。

著作

マハルシ自身の著作

Vichāra Sangraham(真我探究)
1901年編纂。ガンビーラム・セーシャイヤーの問いへの回答。1939年にA Catechism of Enquiryとして再刊。
Nān Yār?(私は誰か?)
1902年編纂、1923年初刊。シヴァプラカーシャム・ピッライの問いへの回答。
アルナーチャラに捧げる五つの讃歌
ヴィルーパークシャ洞窟時代に書かれた五つの讃歌。
Upadesha Sāra(教えの精髄)
1927年、ムルガナールの求めに応じて著した三十詩節。
Ulladu Narpadu(実在についての四十頌)
1928年著。
Ullada Nārpadu Anubandham(実在についての四十頌補遺)
四十詩節のうち十五節はマハルシ自作、残る二十五節は各種サンスクリット聖典の訳。
Ekātma Pañchakam(真我の五詩節)
1947年、女性帰依者の求めに応じた著作。

また、マハルシは帰依者のために『バガヴァッド・ギーター』から四十二節を選訳し、タミル語とマラヤーラム語に翻訳したほか、シャンカラーチャーリヤに帰せられるDakshinamurti StotraVivekachudamaniDṛg-Dṛśya-Vivekaなども翻訳している。

記録された対話

マハルシはタミル語、テルグ語、マラヤーラム語で教えを説いた。それらの対話は通訳者により英語で筆記され、以下の書として刊行されている。

  • Upadesa Manjari : Sri Natanananda(1939年英訳刊行)
  • Talks with Sri Ramana Maharshi『ラマナ・マハルシとの対話』全3巻 : Munagala Venkataramaiah(1935〜1939年の記録)
  • Conscious Immortality『不滅の意識』 : Paul Brunton & Venkataramaiah(1935年)
  • Day by Day with Bhagavan : Devaraja Mudaliar(1945〜1947年の記録)

回想録

  • The International Psychic Gazette : Frank Humphreys(1913年)——寄稿記事。
  • A Search in Secret India : Paul Brunton(1934年)——マハルシを西洋に紹介した著作。
  • Guru Ramana : S.S. Cohens(初版1956年)
  • A Sadhu's Reminiscences of Ramana Maharshi : Major A. W. Chadwick(1961年)
  • Letters from Ramanasram : Suri Nagamma(1973年)
  • Living with the Master : Kunjuswami(2015年)
  • Sri Ramana Reminiscences : G. V. Subbaramayya(1933〜1950年の記録)

ビデオ

日本語版書籍

  • 『ラマナ・マハルシの教え』:ラマナ・マハルシ(著)、山尾三省(訳)、新泉社
  • 『南インドの瞑想』:ラマナ マハルシ(著)、印牧義孝(訳)、大陸書房
  • 『ラマナ・マハルシの言葉』:アーサー・オズボーン(著)、柳田侃(訳)、東方出版
  • 『不滅の意識』:ポール・ブラントン(編集)、柳田侃(訳)、ナチュラルスピリット
  • 『ラマナ・マハリシ: 真我を実現した偉大なる聖賢』:土屋雅昭(著)、光祥社
  • 『沈黙の聖者: 真我は今、あなたの内に』:シュリー・ラマナアシュラマム(編)、出帆新社
  • 『あるがままに——ラマナ・マハルシの教え』:デーヴィッド・ゴッドマン(編)、福間巖(訳)、ナチュラルスピリット
  • 『ラマナ・マハルシの伝記』:アーサー・オズボーン(著)、福間巖(訳)、ナチュラルスピリット
  • 『ラマナ・マハルシとの対話』第1〜3巻:ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア(著)、福間巖(訳)、ナチュラルスピリット
  • 『静寂の瞬間: ラマナ・マハルシとともに』:バーラティ・ミルチャンダニ(編)、山尾三省・福間巖(訳)、ナチュラルスピリット
  • 『アルナーチャラ・ラマナ』:福間巖(編・訳)、ナチュラルスピリット
  • 『真我 ラマナ・マハルシ』:福間巖(編・訳)、ナチュラルスピリット

DVD

  • 『ラマナ・マハルシ——アルナーチャラの聖者』DVD:福間巖(訳)、ナチュラルスピリット

脚注

  1. アーサー・オズボーン著、福間巖訳『ラマナ・マハルシの伝記』ナチュラルスピリット。