| ポーランドの歴史 | ||
|---|---|---|
| ピャスト朝 10世紀 - 1370年 |
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| プシェミスル朝 1300年 - 1306年 | ||
| ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年 | ||
| ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年 | ||
| ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年 | ||
| ポーランド分割 1772年、1793年、1795年 | ||
| ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年 | ||
| ポーランド立憲王国 1815年 - 1867年 |
クラクフ共和国 1815年 - 1846年 |
ポズナン大公国 1815年 - 1848年 |
| 第一次世界大戦 1914年 - 1918年 | ||
| ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年 | ||
| ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年 | ||
| 第二次世界大戦 1939年 - 1945年 | ポーランド亡命政府 | |
| ポーランド総督府 1939年 - 1945年 | ||
| ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年 | ||
| ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在 | ||
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ピャスト朝(ピャストちょう、ポーランド語: Dynastia Piastów)は、ポーランドの王朝。960年頃から1370年まで続いた。王朝としてあるが、初期においてはポーランド的な王家ではなく、グニェズノを主体とする地方侯家であった。1000年にボレスワフ1世がローマ皇帝オットー3世から戴冠および大司教座設置を許可され、その後1025年にローマ教皇ヨハネス19世の許可が下ったことをもってポーランド国家の始まりと見なされる。ここに名前を載せている者で、公には即位したが王位に就かなかった者もいる。
歴史
初期ピャスト朝国家
ポーランド国家形成の核になったのはヴィエルコポルスカ地方に居住したポラニェ族であり、その君主、ミェシュコ1世公(在位:960年頃 - 992年)の名が初めて歴史に登場するのは963年である[1]。12世紀初めのポーランド最初の年代記『ガル・アノニム』は、公家の系譜として農夫のピャストを始祖におき、3代を経てミェシュコに至ると述べているが、本格的な統合はようやくこの10世紀後半に急速に進んだものとみられる[1]。彼の在世中に東西ポモジェ(沿海地方)、シロンスク、マウォポルスカの併合に成功し、今日の国家領土に近い形の領域ができあがった[1]。統合の推進力は「3000人」を擁したと言われる従士団であった[2]。966年、西方キリスト教をこの国に導入したのもミェシュコであった[2]。この結果、彼は文明世界の君侯としての地位を得て、ザクセン家のオットー大帝と友好関係を築くことができた[2]。しかし、改宗に際して彼は明らかにザクセン系の聖職者の影響下に入ることを避けている[2]。ザクセンの聖職者は当時、968年に東方のスラヴへの布教を目的としてマクデブルク大司教座の設立を準備していたが、ミェシュコはまずチェコ公の娘と結婚し、ザクセンと対立状態にあったバイエルン公国の聖職者から洗礼を受けた[2]。また968年にポズナニに設置された司教座はローマに直属し、991年にはローマ教皇に臣従の文書を提出した[2]。当時の教会は国家機関の一部であった[2]。ミェシュコの周到な教会政策には神聖ローマ帝国への配慮と共に、帝国から国家の独立性を守ろうとする意図をうかがうことができる[2]。ポラニェの国がこのように比較的自由な外交を展開できた理由の一つには、エルベ川とオドラ川のあいだに原始宗教にとどまる西スラヴ系の部族連合が存在し、皇帝はその戦いのためにミェシュコの協力を必要としたことがあった[2]。
その子ボレスワフ1世(在位:992年 - 1025年)の時代は2つの段階に分かれる[2]。最初の10年間は教皇と同盟し、国家の強化に努めた時期であった[2]。とりわけ997年、プラハ司教ヴォイチェフ(アダルベルトゥス)がボレスワフの援助を受けてプルスィ族への伝道に向かい、殉教し、聖人に列福されたことが両者の関係を強めた[2]。1000年、聖ヴォイチェフの墓参りのためにグニェズノを訪れたオットー3世は、グニェズノ大司教座の設置を認可した[3]。これは教会でポーランドが独立した組織を持ったことを意味した[3]。皇帝はさらに四つの王国からなるローマ帝国の復興を考えていた[3]。彼がその一つの西スラヴの王として想定したのがボレスワフであった[3]。1002年、オットー3世が急逝すると、ボレスワフは西に軍を進め、プラハをも支配下に置いた[3]。この行為は帝国との長い戦いに発展した[3]。この間、ポモジェ全土がポーランドの支配から脱した[3]。1018年の和約で、彼は征服地の一部を維持したが、西スラヴ統一国家構想は破産した[3]。それでも1025年にはグニェズノで戴冠式が挙行された[3]。ローマから得た王冠と塗油はポーランド国家の一体性とドイツ王国に対する対等性を象徴し、ここにミェシュコ1世以来の路線が完結した姿をみることができる[3]。
しかし、次男のミェシュコ2世(在位:1025年 - 1034年)は王国を維持できなかった[3]。兄弟が皇帝やキエフ・ルーシと手を結んだ結果、王は1031年にチェコ(ボヘミア公国)への亡命を余儀なくされた[3]。彼は翌年には帰国したが、父が得た新領土と王号を放棄した[3]。彼の急死から1039年までのあいだにはピャスト国家が消滅する状況さえ生じた[3]。この間に発生した事件は、その子カジミェシュ1世の追放、農民反乱、1039年のチェコ軍の襲来である[3]。民衆蜂起は反キリスト教の性格を持ち、ヴィエルコポルスカでもっとも激しかった[3]。チェコはシロンスクをも併合し、プウォツクを中心とするマゾフシェでは宮廷官のミェツワフが支配権を確立した[3]。
再建から分裂へ

カジミェシュ1世復興公(在位:1034年、1039年 - 1058年)は皇帝から「500人」の騎士を得て帰国し、またキエフ・ルーシと同盟することで、西ポモジェを除く全土をふたたび統合した[4]。この時代に国家の中心はマウォポルスカのクラクフに移った[4]。その子ボレスワフ2世(在位:1058年 - 1079年)の治世には教会制度も再建され、国家の再興に一区切りがついた[4]。ポーランドはふたたび最初の君主たちの政策に戻った[4]。叙任権闘争に際して彼は教皇グレゴリウス7世の側に立ち、この功績で1076年には王冠を得た[4]。だが、祖父の時と同様に君主権の強化を恐れる反対派が結集したため、王はクラクフ司教スタニスワフを処刑したが、逆にハンガリー王国への亡命を強いられ、一方の司教はやがてポーランドの第二の聖人の席を占めることになる[4]。弟のヴワディスワフ・ヘルマン公(在位:1080年 - 1102年)は神聖ローマ帝国の宗主権を認めた[4]。内政では宮宰(ヴォイェヴォダ)のシェチェフが下級騎士を登用しながら、専制的な統治を築こうとした[4]。しかし、貴族層の抵抗に遭い、彼は追放され、公は腹違いの2人の息子に国を分けた[4]。ヘルマンが死去すると二人の間に対立が生じた[4]。国を追われた兄は皇帝に援助を求め、ポーランドは1109年にドイツの攻撃を受けた[4]。ガルの年代記はこの時のボレスワフ3世(在位:1102年 - 1138年)の檄をこう伝えている[4]。「余は臣従のくびきのなかでポーランド王国を永遠に保持するよりは、王国の自由を守りながら、王国を失う方を望む」と[4]。こののち彼は東西ポモジェの再征服を始め、1124年までに完了した[5]。続いてポモジェへの布教と司教座の設置がおこなわれた[5]。しかし晩年、近隣諸国からの攻撃と圧力を受けた公は1135年、皇帝の調停を求め、ポモジェのみならず、ポーランド全体をも神聖ローマ帝国の封土と認めた[5]。ボレスワフ3世のいまひとつの歴史的行為に5人の息子たちへの遺言(ボレスワフ3世の遺言状)がある[5]。これは彼らに国を分けたうえで、なおかつ国家としての統一性を保つためにピャスト家の最年長者が大公位に就き、国家を代表する原則を定めたものである[5]。それぞれの取り分は相対財産ではなく、また大公は若年公の領内の主要な城砦を支配すると同時に、クラクフからグダンスクにいたる中央部の地続きの一帯が不分割の大公領として設定されたとみられる[5]。西ポモジェへの宗主権も年長公がもった[5]。しかし、兄弟が一人支配の復活を目指したり、大公の地位や子孫への相続権の確保にしのぎを削ったりするなかで、分領地は自立化して排他的な領域的支配権を持つ公国となり、年長公制自体も挫折した[5]。その画期は、三男のミェシュコ老公と末子のカジミェシュ公正公との間で大公位争いが始まる1177年、あるいは老公が死去した1202年であった[5]。
封建的分裂の深化とドイツ東漸運動
1202年のミェシュコ老公の死でボレスワフ3世の息子たちはすべて世を去った[6]。このときまでに子孫を残すことができたのは3人だけであり、その子供たちがかつての大公領をも侵食しながら、分領ピャスト家の家系と領域を確立していった[6]。大公領の中心であったクラクフの公位にはカジミェシュ公正公の長子レシェク白公が座し、マゾフシェとクヤヴィ公国を興したのは次男のコンラド・マゾヴィエツキであった[6]。ヴィエルコポルスカの公家は老公の子孫が作った[6]。一方シロンスクは、大公の地位を追われ、ドイツで客死したヴワディスワフ追放公の2人の息子によってすでに二分されていた[6]。また東ポモジェも1227年に在地の貴族が公位を得て公国化した[6]。この後、子孫が増えるにしたがって細分化がさらに進行した[6]。その原因は国家・社会の封建化にあった[6]。聖俗の貴族や騎士は分国を形成しようとする若年公を支えることで、土地やインムニテート特権、官職を得て領主的土地所有の充実と拡大、あるいは領域権力の確立を目指した[7]。もっとも世紀前半には統一への動きもみられた[7]。その代表は下シロンスクのヘンリク髭公とその子ヘンリク敬虔公である[7]。だが、両ヘンリクの事業は1241年4月9日水泡に帰した[7]。モンゴル帝国軍の侵攻により、レグニツァでヘンリク敬虔公が戦死したのである[7]。
モンゴルのポーランド侵攻
1240年、モンゴル帝国のバイダルとコデン率いる遠征軍はポーランドに侵入し、ルブリン州を掠奪し、戦利品を携えてガーリチに退却した[8]。翌年(1241年)、モンゴル軍は再び侵入し、凍結したウィスラ川を渡り、サンドミェシュを掠奪し、何の抵抗を受けることなくクラクフまで迫った[8]。2月13日、モンゴル軍は戦利品を満載して後退しようとした際、クラクフ州知事のヴウォジミェシュの襲撃に遭い、すぐに蹴散らした[8]。3月、またポーランドに侵入し、サンドミェシュ付近にて二手に分かれ、一方はレンチィツァ州とクヤヴィア州を、もう一方はサンドミェシュ州を掠奪した[8]。3月18日、クラクフ州の貴族たちはスィドロフ市付近でモンゴル軍を攻撃したが敗北し、多数の将校・兵卒が戦死した[8]。サンドミェシュ公ボレスワフ5世はその母と妻クニグンダとともにサンデツ市に近いカルパチア山脈の麓に位置する城に避難し、多数のポーランド人(特に富豪)も彼に倣ってハンガリーまたはドイツ(神聖ローマ帝国)へ避難した[8]。モンゴル軍は無人と化したクラクフに火を放ち、シレジアへ入った[9]。オポーレ=ラチブシュ公のミェシュコ2世オティウィは少数の部下しか持っていなかったので、その従兄ポーランド大公(クラクフ公・首位公)ヘンリク2世が軍を集結していたレグニツァへ退却した[9]。モンゴル軍はシロンスク公国の首都ヴロツワフへまっすぐ進んだが、すでに灰燼に帰していたため、数日間滞在した後、クヤヴィア州を経てレグニツァへ進軍した[9]。
レグニツァの戦い

1241年4月9日、ヘンリク2世率いるポーランド軍はリグニツァを出発し、ナイス川の流れる平原でモンゴル軍と対峙し、攻撃の合図をした[10]。ポーランド軍は5つの部隊に分かれており、第一隊はボレスワフ率いる十字架を握ったドイツ人とゴルドベルグの鉱山夫の部隊、第二隊はスリスラフ率いるポーランド正規軍とクラクフ人の小部隊、第三隊はオポーレ=ラチブシュ公のミェシュコ2世オティウィの部隊、第四隊はドイツ騎士団の部隊、第五隊はシロンスクとポーランド人の精鋭とドイツ外人部隊からなっていた[9]。対するモンゴル軍を指揮するのはチャガタイの六男バイダルであった[11]。モンゴル軍は故意に後退するとポーランド軍の前衛が軽率にもこれを追撃した[10]。ポーランド軍の騎兵と歩兵が遠ざかったあたりで、モンゴル軍は反転してこれを取り巻いていっせいに矢を放ち、その主将ボレスワフをはじめ第一隊はほとんど戦死した[10]。第二隊と第三隊はこれを救援しようとしたが撃退されて潰走した[10]。ヘンリク2世と第四隊はモンゴル軍に突撃したが、奮闘むなしく敗北を喫した[10]。ヘンリク2世はそこから逃げる途中に殺された[12]。モンゴル軍はヘンリク2世の首を槍の先端に刺してリグニツァの正面で降伏勧告したが、リグニツァはすでに焦土作戦によって焦土と化していたため、しかたなく周辺の地方を荒らしまわった[13]。モンゴル軍はボレスィスコに1週間滞在後、モラヴィアに入り、ボヘミア王国とオーストリア公国の国境に至るまで兵火と流血の巷と化した[13]。
統一運動とブワディスワフ・ウォキェテクの王国

1257年、クラクフ司教スタニスワフが聖人に列せられた[14]。これがレグニツァの敗北でしぼんだ国家統一への志向を蘇らせる契機となった[14]。八つ裂きにされた司教の身体が奇跡で元通りになったと言われるように、分裂するポーランド王国もやがて元の統一状態を回復するという論理である[14]。このことは統一運動が共通の歴史意識をもとにしたポーランド的で民族的な感情や理念の上に立っていたことを物語っている[14]。それは外からの脅威の増大で増幅されたはずである[15]。だが、統一運動のメカニズムはポーランド的な民族的利益だけでは説明できない[15]。統一を志した最初の君主レシェク黒公の1288年の死から、1320年にその弟のヴワディスワフ・ウォキェテク(短軀公)が永続的な王国を再興するまでの間、少なくとも4人が王冠を目指した[15]。そのうちのシロンスクの2人の公とチェコ王ヴァーツラフ2世はすでにドイツ化した君主であり、プシェミスウ2世は在地の有力貴族とブランデンブルク辺境伯の協力で戴冠後数か月で暗殺された[15]。この事実は統一運動の展開に占めるドイツ植民の重要性を示唆している[15]。しかし、統一自体の促進要因はこの世紀末にマウォポルスカと東ポモジェ、ヴィエルコポルスカでそれぞれの公家が断絶したことにある[15]。ヴィエルコポルスカのプシェミスウ2世は東ポモジェを合わせた後、翌1295年に王冠を得た[15]。プシェミスウ2世が暗殺されると、ヴィエルコポルスカは結局チェコのヴァーツラフ2世(ポーランド王在位:1300年 - 1305年)を選んで戴冠させた[16]。戴冠以前に彼は1290年~1292年にクラクフとサンドミェシュを奪取していた[16]。ヴァーツラフ2世は1291年、クラクフとサンドミェシュ両公国(マウォポルスカ)の住民各層に対してポーランドの慣習を尊重する旨の文書を発給した[16]。だが、実際に王国を統治したのは新たに配属された代官(スタロスタ)たちであった[16]。王の総督として強大な権限を持ち、しかも任免が自由なこの職にはドイツ人やチェコ人が登用された[16]。加えてアールパード家が断絶したハンガリー王位に息子を就けたことが王の国際的な孤立を招いた[16]。こうした状況がウォキェテクに道を開いた[16]。教皇とハンガリーの貴族の支持を得た彼は1304年末ごろサンドミェシュに入り、彼のもとには在地の騎士層や農民がはせ参じた[16]。翌年にヴァーツラフ2世が死去し、その子もポーランドへの遠征途上で暗殺され、チェコのプシェミスル家が断絶した[16]。この結果、ウォキェテクはクヤヴィ等の相続領のほかにマウォポルスカ全体と東ポモジェにも支配権を得た[16]。1308年~1309年には東ポモジェがドイツ騎士団に占領された[16]。マウォポルスカでも旧代官のクラクフ司教ムスカタや都市は完全には心服せず、1311年にはクラクフ市の世襲ヴイト、アルベルトを指導者とする都市の反乱が勃発した[16]。彼らはドイツ的なルクセンブルク家のチェコ王ヨハンに期待した[16]。シロンスクのグウォグフ公の支配下にあったヴィエルコポルスカの領有の道が1314年に開けたが、ここでもポズナニ市の抵抗にあった[16]。1318年、全国集会で教皇庁に対する戴冠の請願が決議され、1320年1月20日、クラクフの大聖堂でウォキェテク(在位:1320年 - 1333年)の戴冠式が挙行された[17]。こうした統一過程はポーランド王国のかたちを決定づけた[17]。主要都市では世襲ヴイト権の購入に道を開いたが、もはや強力な政治勢力としての都市の地位は失われた[17]。勝利したポーランド人の騎士層はドイツ植民がもたらすモデルのなかから有利なものだけを利用する立場に立った[17]。そのような統一国家にドイツ化が進んだシロンスクや西ポモジェの諸公国が入る余地はなかった[17]。いまひとつの特徴はマウォポルスカの主導的地位である[17]。王のもとに統合された領土は大小6つの公国でしかなかった[17]。これに対し、理念上のポーランド王国とは昔のボレスワフたちの王国を意味した[17]。それゆえ王の課題は東ポモジェをはじめとする領土の回復にあり、彼はドイツ騎士団との戦争に備えるため、最前線のドブジニとイノヴロツワフを領する甥たちとの間で領土の交換さえした[17]。ドイツ騎士団はチェコと同盟し、この両国との戦いは1327年から6年間続いた[17]。この過程でシロンスクのほとんどの公国とマゾフシェまでもがポーランド王を主張するヨハンの臣下となり、ドブジニが騎士団に占領された[17]。1331年には同時攻撃が計画された[17]。幸いにもチェコの軍事行動が遅れ、その際、ポーランド軍は撤退する騎士団の部隊をプウォフツェ村で破った[17]。しかし翌年にはクヤヴィを奪われた[17]。
カジミェシュ大王の国家建設とルーシへの進出

23歳で父を継いだカジミェシュ3世大王(在位:1333年 - 1370年)がまず目指したことは、チェコとドイツ騎士団の同盟関係の解消であった[18]。ハンガリーでの1335年の会議では大金でヨハンからポーランド王位の継承権を買い取った[18]。ドイツ騎士団との関係では、休戦を延長し、チェコとハンガリーの両王に問題の調停を依頼するとともに、彼は父に続いてふたたび教皇庁に提訴した[18]。このような王の現実主義的な政治のもとで国土はほぼ3倍に増えた[18]。1340年、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国のユーリー2世が毒殺された[18]。王は即座にこのルーシ国家の継承に乗り出したが、リトアニア大公国やジョチ・ウルスも介入し、その後16年間戦火が絶えることはなかった[19]。この戦争が大王に本格的な改革を促した[19]。北方の安全を固めるために、1343年初めに西ポモジェと同盟し、7月にはドイツ騎士団とカリシュで「永遠の和約」を結んだ[19]。このカリシュの和約は1335年の調停を基礎とし、ポーランドはドブジニとクヤヴィを回復する代わりに、東ポモジェとヘウムノをドイツ騎士団への「永遠の贈り物」とした[19]。内政上の喫緊の課題は貨幣の増収であった[19]。最初の中央官職として、貨幣収入を一括して管理する「王国財務長官」職がおかれた[19]。現金収入の主たる道としては、臨時税、王領地からの地代、貨幣操作と市場取引税、関税、鉱業、借金等があった[19]。おもな借入先はクラクフ市の商人たちであり、これは王が父とは異なるクラクフ政策をとったことを意味している[19]。彼はまた遠隔地商業の発展にも力を入れた[19]。ウクライナへの進出の主たる目的自体がアジアと接触を持つ黒海貿易から関税等の莫大な利益を得ることにあった[19]。国内植民への王の熱意も非常に高く、ルーシに通じるカルパチア山麓の開発が著しく進んだ[19]。王領地の回収政策も積極的に実行され、なかでもグウォグフ公やチェコ王がおこなった領地の給付の取り消しがその軸となった[19]。ヴィエルコポルスカではこの作業に反発し、1352年に騎士の連盟が結成された[19]。王はまた軍事改革を実施した[19]。この間にも王国領土の統合は徐々に進捗した[19]。シロンスクに対する成果はわずかでしかなかったが、1355年にはマゾフシェへの宗主権が確立された[19]。
1356年、ルーシ問題でリトアニアとの間に妥協案が成立し、ハールィチやリヴィウを中心とするハールィチ公国の領有が確定した[20]。以後の14年間は改革の仕上げの時代であった[20]。その理念は「王が一人であるように王国の法と貨幣も一つでなければならない」と記されたように、中央集権的な内的統合の強化にあった[20]。1350年代末にヴィエルコポルスカ、次いでマウォポルスカにそれぞれ法典が公布された[20]。両者とも貴族身分に関する法(ジェムスキェ法)であり、前者は在地の慣習法の編纂であった[20]。これに対し、新しい規定の多い後者は明らかに「ジェムスキェ法」の全国的統一に向けた準備作業という性格をもっていた[20]。ドイツ法関係では、すでに1356年、各自治法廷での判決の一様化をうながすために、その上級裁判所がクラクフの王城内に設けられた[20]。ユダヤ人にはボレスワフ敬虔公のカリシュの特権を下敷きとする特許状が発給され、全国で効力をもった[20]。ボフニャとヴィエリチカに岩塩鉱法が公布され、貨幣改革の仕上げも行われた[20]。この改革はプラハのグロシュ銀貨に範を得たクラクフ・グロシュを発行し、王国独自の貨幣制度を創ろうとした[20]。1364年には法学系のクラクフ大学の設立許可が教皇庁から降りた[20]。行政の集権化も進行し、国王の警護と宮廷の管理を担当する「宮内長官」職が創設され、次いで1360年代には国家の尚書部が姿を現し、中央官職の原型が完成した[20]。地方行政の面ではマウォポルスカにも次第に他の地方とは多少異なる権限とはいえ代官が置かれ始めた[20]。王国の国際的地位も並行して大いに高まった[21]。1364年にはクラクフで国際会議が開かれ、皇帝と中欧のほぼすべての君主が参加した[21]。領土回復への努力も続行されたが、激戦は1366年のルーシへの再遠征だけであった[21]。この結果王は西ヴォインとポリジャの一部とに宗主権を確立した[21]。また北方でもブランデンブルクの新辺境伯領で成果を得て王国とポモジェが陸路でつながった[21]。
しかし、大王の死とともに貨幣改革やクラクフ大学は頓挫した[21]。統一法としてのマウォポルスカ法典も治世中には完成しなかった[21]。しかし、同法典が合冊されてカジミェシュ法典として意識され、統一法典のかたちで18世紀末まで用いられた[21]。またクラクフ大学も1400年には再建された[21]。そうした意味をも含めてカジミェシュ3世は統一王国の基礎を築いた王であった[21]。カジミェシュ大王をもってピャスト家は断絶し、後を継いだのは大王の姉のエルジュビェタの子アンジュー家のハンガリー王ルドヴィクであった[22]。
構成公国一覧
| 地方 | 公国名 | 首都・中心地 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 大ポーランド | ポズナン公国 | ポズナン | 初期ピャスト家の本拠地 |
| グニェズノ公国 | グニェズノ | 初期の宗教中心地 | |
| カリシュ公国 | カリシュ | 分裂期に独立化 | |
| 小ポーランド | クラクフ公国 | クラクフ | 上位公(シニョール)の座 |
| サンドミェシュ公国 | サンドミェシュ | 王位争いの重要拠点 | |
| シロンスク※ (シレジア) | ヴロツワフ公国 | ヴロツワフ | シレジアの中心 |
| レグニツァ公国 | レグニツァ | モンゴル侵攻の戦場 | |
| グウォグフ公国 | グウォグフ | 分裂で成立 | |
| オポーレ公国 | オポーレ | 上シレジアの一部 | |
| ラチブシュ公国 | ラチブシュ | 上シレジア | |
| チェシン公国 | チェシン | 後にボヘミアの影響下 | |
| マゾフシェ | マゾフシェ公国 | プウォツク | 古い中心地 |
| プウォツク公国 | プウォツク | マゾフシェ公国分裂で成立 | |
| チェルスク公国 | チェルスク | マゾフシェ公国分裂で成立 | |
| ポモジェ (ポメラニア) | グダニスク公国 | グダニスク | 東ポモジェ |
※シロンスクの公国一覧はシロンスク公国群を参照。
歴代君主
- ミェシュコ1世(Mieszko I、960年頃 - 992年) (ポラニェ族長)
- ボレスワフ1世(Bolesław I Chrobry、992年 - 1025年) (ポーランド王:1025年)
- ミェシュコ2世(Mieszko II Lambert、1025年 - 1031年) (王位:1025年 - 1031年)
- ベスプリム(Bezprym、1031年 - 1032年)
- ミェシュコ2世(Mieszko II Lambert、1032年 - 1034年) (復位、侯)
- カジミェシュ1世(Kazimierz I Odnowiciel、1034年(?) - 1058年)
- ボレスワフ2世(Bolesław II Śmiały、1058年 - 1079年) (王位:1076年 - 1079年)
- ヴワディスワフ1世ヘルマン(Władysław I Herman、1079年 - 1102年)
- ズビクニェフ (Zbigniew、1102年 - 1107年)
- ボレスワフ3世 (Bolesław III Krzywousty、1102年 - 1138年)
分裂時代
ボレスワフ3世の遺言状により、国は各相続者に分割され、兄弟の最年長の者がクラクフ地方を治めると共に族長となった。この年長者相続制度は後に立ち行かなくなり破棄され、カジミェシュ2世が選挙によってクラクフ侯に選ばれた。
- ヴワディスワフ2世 (Władysław II Wygnaniec、1138年 - 1146年) (クラクフ侯)
- ボレスワフ4世 (Bolesław IV Kędzierzawy、1146年 - 1173年) (クラクフ侯)
- ミェシュコ3世 (Mieszko III Stary、1173年 - 1177年) (クラクフ侯)
- カジミェシュ2世 (Kazimierz II Sprawiedliwy、1177年 - 1194年) (クラクフ侯)
- レシェク1世 (Leszek Biały、1194年 - 1202年) (クラクフ侯、白公)
- ヴワディスワフ3世 (Władysław III Laskonogi、1202年)
- レシェク1世 (Leszek Biały、1202年 - 1210年) (クラクフ侯)
- ミェシュコ4世タングルフット (Mieszko IV Plątonogi、1210年 - 1211年)
- レシェク1世 (Leszek Biały、1211年 - 1227年)
- ヴワディスワフ3世 (Władysław III Laskonogi、1227年 - 1229年)
- コンラト1世 (Konrad I Mazowiecki、1229年 - 1232年)
- ヘンリク1世 (Henryk I Brodaty、1232年 - 1238年) (クラクフ侯)
- ヘンリク2世 (Henryk II Pobożny、1238年 - 1241年) (クラクフ侯)
- コンラト1世 (Konrad I Mazowiecki、1241年 - 1243年)
- ボレスワフ5世 (Bolesław V Wstydliwy、1243年 - 1279年) (クラクフ侯)
- レシェク2世 (Leszek II Czarny、1279年 - 1288年、黒公)
- ヘンリク4世 (Henryk IV Probus、1288年 - 1290年) (クラクフ侯)
チェコのプシェミスル朝支配
ピャスト家の再統一
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 伊東・井内 2024, p. 45.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 伊東・井内 2024, p. 46.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 伊東・井内 2024, p. 48.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 伊東・井内 2024, p. 49.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 伊東・井内 2024, p. 50.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 伊東・井内 2024, p. 54.
- 1 2 3 4 5 伊東・井内 2024, p. 55.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1968, p. 163.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 164.
- 1 2 3 4 5 佐口 1968, p. 166.
- ↑ 佐口 1968, p. 165.
- ↑ 佐口 1968, p. 167.
- 1 2 佐口 1968, p. 169.
- 1 2 3 4 伊東・井内 2024, p. 64.
- 1 2 3 4 5 6 7 伊東・井内 2024, p. 65.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 伊東・井内 2024, p. 66.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 伊東・井内 2024, p. 67.
- 1 2 3 4 5 伊東・井内 2024, p. 68.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 伊東・井内 2024, p. 69.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 伊東・井内 2024, p. 70.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 伊東・井内 2024, p. 71.
- ↑ 伊東・井内 2024, p. 75.
参考資料
- 伊東 孝之 (編集), 井内 敏夫 (編集)『ポーランド・バルト史 上 (YAMAKAWA SELECTION)』山川出版社〈中公新書〉、2024年7月26日。ISBN 978-4634424128。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。