
トカラ列島の本土復帰(トカラれっとうのほんどふっき)は、アメリカ合衆国の施政権下にあったトカラ列島が、連合国軍占領下であった日本国の施政権下に復帰(本土復帰)したことを指す[1][2]。
1951年(昭和26年)12月5日付で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本国政府に対して送付した覚書(SCAPIN-677/1)によって、トカラ列島は「日本の範囲」に含まれることになった[1][3]。これを受けて日本法の適用に関する措置が整った1952年(昭和27年)2月10日に本土復帰となった[注釈 1][1][2]。これは同年4月28日の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)発効前の本土復帰であり[5][6]、のちに主権下に復帰する奄美群島・小笠原諸島・沖縄県に先駆けての復帰となった[2]。
本土復帰に伴う法域の変更に対応するため、日本国政府が公布した政令により、各種法令の移行に関する暫定措置が執られ[7]、日本国政府と鹿児島県の調査団による現地調査、現地を管轄していた奄美群島政府からの事務引継ぎが急ピッチで行われた[8]。行政区画については、1946年(昭和21年)に北緯30度線を境界として村内に引かれた「暫定国境線」により分断されていた十島村(じっとうそん)は、復帰と同時に十島村(としまむら)と三島村(みしまむら)とに事実上分割されることとなった[9][10][11]。その後、日本法の順次適用を経て[7]、2月から3月にかけて米軍の軍票「B円」から「日本円」への通貨交換が行われた[12]。同年7月に米軍に接収されていた村有船「金十丸」(かなとまる)を三島村・十島村が村ぐるみで奪還・回航する事件も発生した[13][14]。
こうして本土復帰を果たしたトカラ列島であったが、のちに復帰した奄美群島・沖縄県・小笠原諸島で制定された大規模な振興目的の特別措置法が、トカラ列島のみ制定されなかった[注釈 2]。これが他地域に比較してインフラ整備等が立ち遅れる一因となり、復帰から70年以上経過した現在もなお、解消されない構造的な格差となっている[15][16]。
前史
第二次世界大戦の敗戦と連合国軍による領土の統治

1945年(昭和20年)に第二次世界大戦において日本が連合国に対して降伏した。これにより、日本は連合国軍最高司令官(SCAP)を最高責任者とする連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers、略称:GHQ)の間接統治下に置かれた。
1946年(昭和21年)1月29日に連合国軍最高司令官は覚書(SCAPIN-677、「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」、二・二宣言とも)を日本国政府に対して送付した。この指令によれば、口之島を除く北緯30度以北の地域については連合国軍最高司令官の管轄下となっている日本国政府の施政権下に置くことと定めた。その一方で、その区域外となったトカラ列島・奄美群島・琉球群島・大東諸島からなる口之島を含む北緯30度以南の南西諸島については「日本の範囲」に含まれないこととなった[17]。具体的な条文は以下のとおりである[18]。
3 この指令の目的から日本と言ふ場合は次の定義による。
- 日本の範囲に含まれる地域として
- 日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼
- 日本の範囲から除かれる地域として
- (a)欝陵島、竹島、済州島。(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。
施政権分離前の十島村
1908年(明治41年)4月1日の島嶼町村制施行により、鹿児島県大島郡に属する「十島村」(じっとうそん)が発足した[19]。同村は「下七島」と総称されるトカラ列島(口之島・臥蛇島・小臥蛇島・中之島・諏訪之瀬島・平島・悪石島・小宝島・宝島・上之根島・横当島)[注釈 3]と、上三島(竹島・硫黄島・黒島)によって構成された。村の事務を行う役場の本庁舎はトカラ列島の中之島に置かれていた[21][22]。
上三島(竹島・硫黄島・黒島)は北緯30度以北に位置している一方で、その他のトカラ列島に属する島々は北緯30度以南に位置しており、口之島の地上には北緯30度線が通っている[23][24]。
1920年(大正9年)4月1日に島嶼町村制に代わって本土と同様に町村制が施行され、それまで制限されていた村民と自治の権利が本土並みとなった[25]。しかし、教育制度の面では依然として遅れが見られた。1886年(明治19年)に施行された小学校令は、改正を経て市制・町村制が施行されている日本国内の市町村に施行され、さらには外地である南樺太や委任統治領であった南洋群島において小学校令に準じた法令が施行された。それにもかかわらず、十島村については町村制施行後も適用されていなかった。十島村へ適用されるのは本土に遅れること約50年経過した1930年(昭和5年)のことであった[26][27][28]。
| No | 島名 | 島嶼群 | 座標 | 村役場 からの距離 |
特記事項 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 黒島 | 上三島 | 北緯30度50分 東経129度56分 / 北緯30.83度 東経129.93度 | 110 km | |
| 2 | 硫黄島 | 北緯30度46分 東経130度18分 / 北緯30.77度 東経130.30度 | 110 km | ||
| 3 | 竹島 | 北緯30度49分 東経130度25分 / 北緯30.81度 東経130.42度 | 118 km | ||
| 4 | 口之島 | 下七島 (トカラ列島) |
北緯29度58分 東経129度55分 / 北緯29.97度 東経129.92度 | 14 km | 北端を北緯30度線が通る |
| 5 | 中之島 | 北緯29度50分 東経129度54分 / 北緯29.84度 東経129.90度 | (基点) | 村役場所在地 | |
| 6 | 臥蛇島 | 北緯29度54分 東経129度32分 / 北緯29.90度 東経129.54度 | 35 km | ||
| 7 | 諏訪之瀬島 | 北緯29度38分 東経129度43分 / 北緯29.63度 東経129.71度 | 29 km | ||
| 8 | 平島 | 北緯29度41分 東経129度32分 / 北緯29.68度 東経129.53度 | 40 km | ||
| 9 | 悪石島 | 北緯29度27分 東経129度36分 / 北緯29.45度 東経129.60度 | 52 km | ||
| 10 | 宝島 | 北緯29度09分 東経129度12分 / 北緯29.15度 東経129.20度 | 102 km | ||
| 11 | 小宝島 | 北緯29度13分 東経129度19分 / 北緯29.22度 東経129.32度 | 89 km | ||
| 12 | 横当島・上之根島 | 北緯28度47分 東経128度59分 / 北緯28.79度 東経128.99度 | 146 km | いずれも無人島 |
北緯30度線に引かれた暫定国境線と引き裂かれた「十島村」

1946年(昭和21年)1月29日にGHQから日本国政府に対して送付された前述のSCAPIN-677によって、日本の範囲から除かれる地域として「北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)」が指定された。これにより、島内を北緯30度線が通過する口之島を含む、北緯30度以南の琉球(南西)諸島[注釈 4]の区域が日本国政府の施政権(行政権・司法権)から除外されるとともに[29][30][22]、一部の例外を除き、当該区域への日本側からの通信も禁止された[31]。
同年2月2日に琉球列島米国軍政府により行政分離命令が奄美群島及びトカラ列島の住民に対して布告され、トカラ列島は奄美群島と共にアメリカ合衆国の施政権下となった[32][33][34][35]。なお、トカラ列島は奄美群島と共に1945年11月26日に布告された米国軍政府布告第1号Aにより事実上の占領統治下にあったが、SCAPIN-677の発令により法的にも米軍統治下となった[36]。
この結果、行政分離の境界線(暫定国境線)である北緯30度が十島村を分断する形となった。北緯30度以南のトカラ列島はアメリカ合衆国の施政権下となった一方で、以北の上三島は日本の施政権下に残存することになった。このため、一つの村が北緯30度線を境界に日本とアメリカの施政権下の区域にそれぞれ引き裂かれることとなった[17][21]。第二次世界大戦後の日本国において、同一の市町村が占領によって分断された例は十島村が唯一である[37]。
この分断により、上三島(竹島・硫黄島・黒島)のみとなった日本の施政権下にある「十島村」は、十島村の村役場が置かれている中之島がアメリカ合衆国施政権下となったことにより、日本国政府の施政権下にある十島村から見ると村役場が「暫定国境線」の向こう側となり、「村役場」を失ったまま日本国政府の施政権下に存続することを余儀なくされた[17]。
こうした事態を受け、上三島を管轄する役場として「十島村仮役場」が鹿児島市に設置された[38][20]。鹿児島県知事によって安永幸内が村長臨時代理者に指名され[37]、実質的に下七島とは別の村としての歩みを始めた[21]。その一方で、上三島は下七島(トカラ列島)の一日も早い日本国への復帰を願い「十島村」という名称を残したまま日本国の施政権下において存続することとなった[39]。上三島からなる十島村は1946年(昭和21年)2月28日の内務省告示第22号により硫黄島・竹島・黒島の上三島が鹿児島県の管轄となった[17]。
| 島 | 暫定国境線設定前 | 暫定国境線設定後 (実質統治) |
|---|---|---|
| 竹島 | 十島村 |
鹿児島県大島郡 十島村 |
| 硫黄島 | ||
| 黒島 | ||
| 口之島 | 大島支庁→臨時北部南西諸島政庁 十島村 | |
| 臥蛇島・小臥蛇島 | ||
| 中之島 | ||
| 諏訪之瀬島 | ||
| 平島 | ||
| 悪石島 | ||
| 宝島・小宝島 | ||
| 上之根島・横当島 |
米国施政権下のトカラ列島

トカラ列島に属し北緯30度以南に位置する口之島・臥蛇島・小臥蛇島・中之島・諏訪之瀬島・平島・悪石島・小宝島・宝島・上之根島・横当島は、SCAPIN-677の指令により、アメリカ合衆国(米国)の施政権下となった。
1946年(昭和21年)3月16日には、琉球列島米国軍政府の管轄下に日本の鹿児島県の支庁であった大島支庁を改組する形で「大島支庁」が設置された。米国の施政権下にある十島村(下七島)は、大島支庁の管轄下に置かれることとなった[40][41]。その後、行政組織は臨時北部南西諸島政庁[42]、奄美群島政府[43]へと改組が繰り返され、1951年(昭和26年)4月1日には群島政府の上位組織として琉球臨時中央政府が設立され、琉球臨時中央政府に属する奄美群島政府の管轄下にあった[40][44]。なお、いずれの機関もアメリカ軍の琉球列島米国軍政府(United States Military Government of the Ryukyu Islands、略称:USMGR)、琉球列島米国民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands、略称:USCAR)の監督下にあった[43]。また、米国の施政権下において十島村(下七島)に対して、それまで適用されていた町村制を改め、1946年(昭和21年)6月に臨時北部南西諸島政庁が施行した市町村制(1949年臨時北部南西諸島政庁令第21号)が適用されることとなった[22][45]。
こうした統治下において、日本国の国旗である日の丸の掲揚と国歌である君が代の歌唱は禁じられていた[46]。一方、社会経済の面では、事実上の国境となった口之島やその南に位置する中之島は密航や密貿易の拠点となっており、国境警備の監視を掻い潜り国境線を突破するための待機を行う船のたまり場となっていた[47]。また、密貿易で鹿児島や奄美・沖縄方面とのつながりを保っていた中之島、口之島、宝島では密貿易の運搬などで現金収入があり、口之島では人気のなかった海辺に50戸ほどの家屋や店舗、診療所、料理店などが並ぶほどであった。これに対して、密貿易の恩恵を受けない他の島々では竹編みの家に筵を敷きランプの油もなく原始的な生活を強いられていた[48]。
| 期間 | 米軍組織 | 地方組織 | |
|---|---|---|---|
| 1946年2月2日~1946年10月3日 | 琉球列島米国軍政府 | 大島支庁 | |
| 1946年10月3日~1950年11月25日 | 臨時北部南西諸島政庁 | ||
| 1950年11月25日~1950年12月15日 | 奄美群島政府 | ||
| 1950年12月15日~1951年4月1日 | 琉球列島米国民政府 | ||
| 1951年4月1日~1952年2月10日 | 琉球臨時中央政府 | 奄美群島政府 | |
本土復帰までの航路と船舶

多くの小島から構成される十島村にとって、船舶は「命綱」であった。第二次世界大戦前の十島村(上三島と下七島)は、1933年(昭和8年)就航の十島丸(としままる、155トン)と1941年(昭和16年)就航の金十丸(かなとまる、580トン)の2隻の船舶を所有していた[49]。特に「金十丸」は奄美群島出身の衆議院議員金井正夫の尽力によって建造に漕ぎ着けたことから、その功績を讃えて金井の「金」と十島村の「十」より船名が命名された[50]。
1942年(昭和17年)時点で、金十丸は鹿児島港―硫黄島―中之島―名瀬港を結ぶ航路に就航し、十島丸は各島に寄港する航路に就航していた[51]。しかし、両船は第二次世界大戦中の戦時海運管理令(昭和17年勅令第235号)によって設立された船舶運営会の管理下に置かれることになった[49]。
当時、奄美・トカラ列島周辺の海域は九州と沖縄を結ぶ要衝であったため、米軍の潜水艦や航空機による攻撃の標的となり、極めて危険な状態にあった。この海域で沈没した商船は約40隻にのぼり[52]、1944年(昭和19年)8月22日には悪石島沖で米軍潜水艦による魚雷攻撃を受けて沖縄から鹿児島に向かっていた疎開船が沈没し、疎開学童ら1,484名が犠牲となった対馬丸事件も発生している[53]。
こうした状況下で運航を続けていた金十丸も1945年(昭和20年)3月15日の航行を最後に運航停止を余儀なくされ[53]、これにより鹿児島と奄美との間の海上交通は断絶された[54]。
終戦後、鹿児島湾に滞留していた十島丸と金十丸は、奄美方面への復員兵の輸送に従事したのちに[55]、北緯30度以南を占領した米軍に接収され[56][57]、金十丸は当時の十島・奄美において唯一稼働できる大型鋼鉄船となっていた[57]。このことから金十丸は奄美群島の住民から「海の女王」とも称されていた[58]。
接収後の金十丸は、沖縄・奄美、奄美群島内を結ぶ航路に就航していたが、1950年(昭和25年)11月に琉球列島米国軍政府は金十丸が日本国側に残留している十島村の資産であることを理由に在外財産とみなすこととし、保管権は琉球財産管理官へ、運営権は琉球軍政官へと移管された[57]。その後は、暫定国境線付近での密航・密貿易船の取り締まりに従事していたが[59]、所有権が米軍統治下の十島村に返還され奄美商船の所属船となっていた[57]。
一方、日本の施政権下に残っていた十島村(上三島)は2隻の返還を求めて連合国軍総司令部や国会に請願と陳情を継続した。その結果、1947年(昭和22年)8月27日に十島丸の返還を実現させた[56]。

これに対し、実質的に金十丸を利用できない状態が続いていたアメリカ合衆国統治下の十島村は米軍との交渉により代船「OL10号」(300トン、シドニー建造)を就航させたが、1946年(昭和21年)冬に中之島で沈没[60]。以後は、没収された密航船の払い下げを受けるなどして航路を維持せざるを得なかった[52]。さらに、本土復帰直前の1951年(昭和26年)10月に日本各地で猛威を振るったルース台風は、トカラ列島においても大きな被害を与え、漁船などの船はことごとく台風の被害に遭っており、はしけぐらいしか残っていない有様であった[46]。
本土復帰への動き
トカラ列島は奄美群島と共にサンフランシスコ平和条約を契機に日本国への復帰を目指すべく、1951年(昭和26年)2月16日に「奄美大島日本復帰協議会」を結成した。復帰協議会は署名運動を開始し、奄美群島とトカラ列島で14歳以上の人口に対して99.8%にあたる139,348人が復帰要求の署名をし、十島村(下七島)の区域でも1,970人が署名した[61]。また、教職員組合による復帰運動も展開され、子供たちが「日本復帰を求める歌」を合唱するなど、地域を挙げた運動へと発展した[61][62]。
こうした中、1951年(昭和26年)7月に日本国との平和条約の条文を報じたAP通信の「対日講和条約草案」では北緯29度以南の南西諸島をアメリカの信託統治下置くことができると規定された一方で、北緯29度から北緯30度に位置するトカラ列島は、その対象から除外された。これにより、日本国への本土復帰は事実上確実なものとなった[3]。
しかし、奄美群島と一体となって復帰運動を推進してきたトカラ列島のみが分離して本土復帰する形となったことに対し、住民の反応は一様ではなかった。十島村誌は、この決定を住民が「複雑な思いで受け止めなければならなかった」と記している[63]。
連合国軍最高司令官総司令部覚書の発令

日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の効力発生前となる1951年(昭和26年)12月5日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN-677/1)を日本国政府宛に送付した[45]。これにより、それまで日本の区域から除外されていた「北緯30度以南から北緯29度以北」のトカラ列島の区域が、再び「日本の範囲に含まれる地域」として再定義された[64][3][65][6]。
一、関係覚書
- a 昭和二十一年一月二十九日日本政府に対する覚書AG091(SCAPIN677)「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」
- b 昭和二十一年三月二十二日日本政府に対する覚書AG091(SCAPIN841)「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」
二、上掲覚書によつて改められた上掲覚書aの第三項を更に改めて、北緯二十九度以北の琉球(南西)諸島は、該指令の目的から日本として定義される地域の中に包含されるものとする。
三、日本政府は、これらの島に対して、連合国最高司令官の権限の下におかれることを條件として、政治上、行政上の管轄権を回復することを指令せられる。
この覚書は、国際的合意である条約ではなく、日本国を間接統治下に置いたGHQによる指令という形をとった[66]。その結果、トカラ列島は復帰時点の日本本土と同様に、連合国軍最高司令官の権限下に置かれるという条件付きでの施政権回復となった[65][6]。
当時の人口について、朝日新聞は1951年3月末時点の推計人口を3,600人と報じており、島別の内訳は、中之島1,300人、口之島900人、宝島800人、悪石島250人、平島150人、諏訪之瀬島120人、臥蛇島70人であった[65]。
こうした経緯を経て、隣接する奄美群島において当時熾烈な本土復帰運動が行われている中、十島村は一足先に日本国へ復帰を果たすこととなった[67]。トカラ列島が先行して返還された背景について、南方同胞援護会は、トカラ列島が「日本書紀」時代から文献に現れる「わが国固有の領土」であること、連合国が定義した「第一次世界大戦以来日本が委任統治その他の方法で奪取または占領した全太平洋諸島」に該当せず、分離自体が不当であったことを挙げており、さらに、占領開始後から鹿児島県の当局において復帰運動を展開していたことに加え、米軍側としてもトカラ列島に軍事上の価値が認められなかったことが返還に踏み切る決定打になったと分析している[68]。
各機関の反応と対応
連合国軍最高司令官総司令部
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、前述のSCAPIN発令後に日本国政府と行政事務に関する引継ぎの協議を開始した。12月13日付の日本経済新聞は、その協議内容の概要を次のように報じている[69]。
- 渡航制限の継続
- 北緯29度線の行政上の閉鎖が完了していないため、トカラ列島と日本本土との自由な往来を即座に認めることは困難である
- 日本本土からの渡航条件
- 琉球列島米国民政府の許可証は不要となる
- 身分証明書及び12月5日付総司令部覚書(SCAPIN-677/1)の写しを携行すること
- 食糧、通貨の携行については、引き続き従来通り必要である
- 行政事務の移行
- 行政事務の引継には相当期間を要する
- そのため、引継ぎの間の現地住民に対する食糧の配給、公務員の給与支給などはアメリカ合衆国側で考慮する
日本国政府
日本国政府は12月6日、GHQより受領した覚書の内容を鹿児島県東京事務所に対して通告した。翌7日に外務省を中心とした関係省庁の協議が行われ、以下の事項についての措置を講じる必要があることを確認し、国による早急な現地調査を行い法的措置を行う予定であると同日付の南日本新聞が報じている[70]。
- 沖縄の軍票(B円)による貨幣制度
- 日本領土から七島への渡航手続
- 米国から供与されていた救済金の返済
- 教育制度
- 現在入獄中の者、裁判中の者の取り扱い
同日の外務省・法務庁・大蔵省の関係係官の打ち合わせでは、北緯30度を跨いでの自由航行を認めるためには通貨切替が先決としており、外務省アジア局第二課長は「渡航は現地が円地区ではなかったため、通貨の問題が解決しない限り、自由渡航は不可能である」と回答した[71]。
また、自治庁(のちの自治省)は、国内法の手続準備にあたり以下の内容について問題になる点として掲げている[70]。
- 村長、村会議員の取り扱いについて
- 今まで下七島(トカラ列島)に適用していた軍法令などの取り扱いについて
- 選挙に関係して軍政下で村民が受けた刑罰について
- 税金、使用料、手数料の取り扱い方
- 分村する場合の地方自治法の建前と、実際の財産処分などの処理について

警備体制については、国家地方警察、海上保安庁においても管轄の取り扱いや、密航・密貿易の取り締まりについて調整を行うと発表し[70]、同年12月18日には国家地方警察の通達により北緯30度を跨る渡航について、本土復帰までの間以下の通り暫定措置を行うと発表した[72]。
鹿児島県
南日本新聞の取材に対し、鹿児島県知事の重成格は「なんといっても喜ばしいかぎりだ」として日本国への復帰が実現した暁には早速視察に行きたいとし、住宅・学校・その他施設の再建に注力する方針を明らかにした[71]。また重成は1951年(昭和26年)12月14日に開かれた鹿児島県議会の定例議会における提出議案説明の中でトカラ列島の本土復帰について以下のように述べている[73]。
今回総司令部の覚書によりまして大島郡十島村の七島が、講和条約の発効をまたずして十二月五日より日本に復帰することになりましたことは、まことに御同慶にたえないところであります。これが受入れ態勢につきましては、近く政府において決定いたしまする基本の政令に基づいて万全を期して参る所存であります。
—鹿児島県知事重成格
鹿児島県議会においては、同年12月15日に県議会議員の山中貞則(のちに衆議院議員、通商産業大臣となる)による総括質問において「奄美大島十島村に属する七島の本県行政復帰関係問題」についての質疑が行われた[74]。
また、県総務部長の三ッ井卯三男は「もぎ離されていたわが子が六年ぶりにかえってくるといったよろこび」であると表現した。そのうえで、当面の最優先課題として早急な現地調査の実施を掲げるとともに、同年に鹿児島県に上陸したルース台風での甚大な被害を念頭に「ルース台風の被害は相当大きかったようだが、さしずめ食糧の供給について応急の措置をとりたい。」と述べ、被災した村民の生活基盤の再建を急ぐ姿勢を強調した[70]。
十島村(上三島)
北緯30度以北の区域のみを管轄する「十島村」(じっとうそん)は、「思いがけない吉報に小躍りして喜んだ」とコメントした。その一方で、トカラ列島の区域を再編入した場合に「約200海里〔ママ〕に渡る海上に散在する島々の行政をどうするか、経済援助など問題が多い」と回答した[70]。
琉球列島米国民政府
琉球列島米国民政府の下位組織で、奄美を管轄する奄美地区民政府は行政命令「琉球諸島合衆国民政府の行政管轄権の北部境界線変更」(行政命令第56号)を施行した。これにより、トカラ列島の区域は11月24日付でアメリカ軍の直接統治下から離れ、連合国軍最高司令官の管轄下に編入された。同時に、同年12月末日をもって奄美とトカラ列島間の往来や商取引を閉鎖し、以降は密航・密貿易の取り締まりを行うこととした[5]。
日本国政府側は1951年(昭和26年)12月21日にポツダム命令として公布した政令に基づき、引き継ぎの準備を実施していた。しかし、琉球列島米国民政府の返還に関する方針が決定が遅れたことで、日本国政府や鹿児島県側の受け入れ準備にも停滞が生じた。こうした状況の中、12月中旬に中之島を訪問した琉球財産管理官より、十島村村長に対して以下の内容が伝達された[75]。
- 日本巡査の引継後、琉球巡査および銃器は琉球に返還のこと
- 無線電信は日本航路のできるまで、あるいは1952年2月10日、またはそれまでに琉球網に存置する
- 奄美に行っている十島村学生は学期末を終了することができる
- 十島にいる奄美教員は引継ぎまで存置する
- 郵便局は日本航路ができるまで、あるいは1952年2月10日まで、またはそれまでに操業を続行する。
- 十島の人民は奄美における用務をすませること
- 食糧配給は日本の引継ぎまで続行するはずであるが、1952年2月10日以後はやらない
- 奄美群島にいるらい病患者は十島に返還される
- 十島村船舶の登録は1952年1月1日付取消しのはず
- 琉球税の締切り期日は1951年11月24日とし、その税は1952年1月1日までに支払いのこと
- 自後の補助金は認められず
- 奄美群島にある囚人は十島に返還される
奄美群島政府
アメリカ軍統治下の行政機関であり、トカラ列島を直接管轄していた奄美群島政府の知事である肥後吉次は、十島村長宛に日本国への復帰を祝したメッセージを送付した[76]。
分離以来苦労をわかって来た三千の七島住民はここに平素の宿願を達成した。この六年の間の不完全な境遇を精算して、日本人としての地位を名実共に獲得した十島村住民の喜びは想像に余るものがあります。
—奄美群島政府知事肥後吉次
一方で、実務面では暫定国境線の変更(北緯30度から北緯29度へ)に伴う対応がとられた。1951年(昭和26年)12月26日、奄美大島警察部長は国家地方警察鹿児島県本部に対し、1952年(昭和27年)1月1日付で新たな暫定国境線となる北緯29度の自由航行を禁止される旨を通告し、早急に事務の引継ぎを行いたいとする方針が公表された[75]。
トカラ列島住民の反応
復帰への熱狂と「日の丸」

総司令部覚書発令から5日後となる1951年(昭和26年)12月10日に中之島に上陸した南日本新聞の記者の現地報告によれば、島の子供が記者に対して「七島が日本に返還されたのは本当か?」と尋ね、紙面を渡すと目を輝かせて島民にその新聞を見せて回ったと報じている[77]。
1952年(昭和27年)1月5日、中之島にある中之島小学校(現在の十島村立中之島学園)において行われた日本国政府・奄美群島政府・鹿児島県の連絡会議について報じた1月12日付の南日本新聞には「日の丸、君ケ代に感激の涙」の見出しで、トカラ列島の視察のために中之島を訪問した日本国政府・鹿児島県の視察団を日本国の国旗である日の丸を振って出迎える島民の写真とともに「6年ぶりに聞く君が代に感激の涙を流した」と報じている[8]。
当時の日本国政府派遣団で外務省の担当であった吉田嗣延は、その時の光景を以下のように回想している[78]。
われわれは、このときまで秘かに隠し持っていた日の丸の旗を取り出して、島民に配ろうとした。そしたら彼らも、懐の中から一斉に日の丸の小旗をとり出した。それは手製の小さい粗末なものだった。―島民は長い年月、この日の来るのを心の中に待ち続けて、秘かに日の丸の旗を作っていたのである
また、口之島では「日の丸」を掲げた船が入港してきた際には、万歳と叫ぶ者やタオルをくわえて涙ぐむ者、あるいは呆然と立ち尽くす者など、島民は様々な反応でこの瞬間を迎えた[62]。
複雑な思いと新たな断絶
こうした熱狂的な歓迎の一方で、島々の反応は必ずしも一様ではなかった。臥蛇島の島民に本土復帰を報じた記事を南日本新聞の記者が渡したが、受け取った島民は表情も変えず「ああ、そうですか」と答えるのみであった[48]。
さらに、本土復帰によって新たな別離をもたらした。同年1月9日付の南日本新聞には「ふるさとは外国」との見出しで中之島の開拓に乗り出している奄美大島出身の島民が合計で820名生活しており、今度は奄美大島が北緯29度線を隔てて「外国」となってしまったことで、奄美大島に居住する肉親と離れ離れになってしまった現状を伝えている[79]。
このように、1946年(昭和21年)の二・二宣言(SCAPIN-677)により北緯30度で鹿児島本土から切り離されたトカラ列島は、今回の復帰により新たに引かれた北緯29度によって、奄美群島との結びつきが断たれることとなった。祖先の出身地が奄美群島であったり、奄美群島とつながりが深い住民が多く、トカラ列島の住民は複雑な思いで日本国への復帰を受け止めることとなった[63]。
他地域の反応
本土の報道
連合国軍最高司令官覚書の発令を受け、日本本土の新聞記事では以下のように報じている。
奄美群島
奄美群島においては、連合国軍最高司令官覚書の発令を受け、1951年(昭和26年)12月19日に「十島村下七島復帰」を祝す提灯行列が名瀬(現在の奄美市)で行われた。
提灯行列の後、名瀬小学校(現在の奄美市立名瀬小学校)には数千人の市民が集結し、「復帰促進総決起大会」を開催した。参加者はトカラ列島の先行復帰を自らの本土復帰運動の糧とし、「われわれも奮い立って来年こそ日本に復帰するような猛運動の展開」との決意を新たにした。また大会では、軍政下で失われた「鹿児島県大島郡」の復活が力強くアピールされ、「鹿児島県大島郡万歳」を三唱し、日本国への早期復帰を願った[82]。
ポツダム政令による日本法の適用

1951年(昭和26年)12月21日に日本国政府は「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN-677/1)に基づき、トカラ列島の復帰に伴う暫定措置を定めるポツダム命令を発令した。これは、『昭和二十六年十二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令』(昭和26年政令第380号)として公布・即日施行され、同時にSCAPINが発令された12月5日に遡及して適用されることとなった[83][84]。
同政令に基づきトカラ列島の区域からなる十島村については第1項において、琉球列島米国民政府またはその機関に属していた権限は、以下の通り日本国側の機関へ移管された[17][85]。
この政令に基づき制定される別段の政令で定める法令で定めるものを除き、現地ではそれまで適用されていた諸法令が引き続き適用されることとなった[86]。この措置は6年間という短期間とはいえ異なる法域にあったトカラ列島の区域に対して日本国の法令を一挙に適用することにより混乱が生ずるのを防ぎ、法制の移り変わりをスムーズにするための暫定措置として行われたものである[7]。
また、占領下の十島村の区域で公務に従事していた者は、日本国における相当の公務員とする旨が定められた[85]。行政実務については、当面の間は鹿児島県知事が「国の機関」として事務代行を行い、国の受け入れ態勢が整い次第、政令によって各事項別に鹿児島県知事から日本国政府の所管官庁へ引継ぎを行うこととなった[87][17]。
現地調査と本土復帰に向けた措置
奄美群島政府から鹿児島県への引継文書の送付
連合国軍最高司令官覚書(SCAPIN-677/1)の発令から5日後の1951年(昭和26年)12月10日に奄美群島政府知事は鹿児島県知事宛に「十島村資料送付の件」という文書を送付した[63]。鹿児島県及び中央政府(日本国政府)に対して、直ちに調査団の派遣して受け入れ態勢を樹立するよう要請した。
- 一、昭和二六年一〇月四日付二六地第一〇八〇号首題の件、別紙の通り回答します。
- 二、別紙添付琉球諸島合衆国民政府奄美地区行政命令第五六号文書の通り、本群島に於ては、十島村日本復帰に関し、初めて正式命令が発せられて居ります。
- 三、行政移管の事務は、きわめて複雑であって、その解決には容易ならぬ困難が伴うものと考えられますので、貴県及び中央政府は、直ちに調査団を派遣せられ、受け入れ態勢の樹立に資せしめられるよう進言いたします。
- 四、本群島としても、極力この調査団と協力して、移管事務の円滑をはかりたい。
—十島村資料送付の件(奄美群島政府)[88]
日本国政府派遣団の沖縄・奄美訪問
日本国政府から内閣法制局・外務省・大蔵省・自治省の4名がアメリカ軍当局との協議と実情調査のため派遣団として送られることとなった[89]。
- 吉田嗣延(調査団長[90]、外務省) - のちに沖縄協会専務理事
- 真田秀夫(内閣法制局) - のちに内閣法制局長官
- 広瀬駿二(大蔵省) - のちに大蔵省証券局長
- 長野士郎(自治省) - のちに岡山県知事
派遣団はアメリカ合衆国統治下の那覇(現在の沖縄県那覇市)に渡り、1951年(昭和26年)12月24日より、アメリカ側の機関とトカラ列島の返還に関する事務的な協議を行った[78]。協議の中で、当時十島村が米軍に対して返還を求めていた十島村の所有船「金十丸」の取り扱いについて、十島村への返還を派遣団の長野と吉田が求めたところ、琉球列島米国民政府の民政官が激昂して口論に発展する場面があったと吉田は回想している[91]。12月28日には琉球列島米国民政府副長官のロバート・S・ビートラー、沖縄群島政府知事の平良辰雄との会見を行った[92]。
米軍関係者が返還を「これはクリスマスプレゼントである」と誇らしげに語ったのに対し[78]、吉田は自らの心境を「ながい間、親許から無理に引き裂かれていた子たちを取り戻しに行くのである」と回想しており、両者の認識の乖離を浮き彫りにしている[89]。
日本国政府の派遣団は翌年1月2日に奄美大島の名瀬(現在の奄美市名瀬)に渡って現地の軍政府・奄美群島政府との打ち合わせを行った[78]。奄美大島での打ち合わせののち、奄美群島政府の職員と共にくしくも返還を巡って議論となった「金十丸」に乗船。トカラ列島の中心地である中之島に向けて奄美大島を出発し、1月5日に現地へと到着した[93]。
中之島における連絡会議


1952年(昭和27年)1月5日に、中之島の中之島小学校(現在の十島村立中之島学園)において日本国政府・奄美群島政府・鹿児島県の連絡会議が行われた。参加者は前述の日本国政府派遣団の4名に加え、以下のとおりである[8]。
連絡会議では、日本国政府と奄美群島政府との間で総司令部覚書に関する手続きについて錯誤が発生している点や通貨の切り替え、食糧の配給、交通機関(金十丸)の取り扱いなどについて協議が行われ、暫定国境線である北緯30度線と今回の返還に伴い暫定国境線となる北緯29度線の越境・関税などの取り扱いについて日本国政府側の政令の改正が早急に必要であるとして、現地から電報を外務省アジア局へ送付した[8]。
特に北緯30度線の取り扱いについては、同年1月1日に琉球列島米国民政府によって境界が北緯30度から北緯29度に変更されていたが、日本国政府側の法令が改正されていなかったため、トカラ列島の住民は北緯30度を超えると日本国の法令に違反し、北緯29度を超えると琉球列島米国民政府の命令に違反するという、「法的にどこへも行けない」孤立状態に陥っていた[95]。
日本国政府は、2月1日に以下の2つの政令と1つの外務省令を公布・同日付で施行し、北緯30度の法的な境界が撤廃された[95]。
- 北緯三十度以南の南西諸島に本籍を有する者の渡航制限に関する臨時措置令等の一部を改正する政令(昭和27年政令第8号)
- 鹿児島県大島郡十島村に関する渡航及び出入国関係諸法令の適用に関する政令(昭和27年政令第9号)
- 外国人登録令施行規則等の一部を改正する省令(昭和27年外務省令第3号)
政府派遣団は今回返還される諸島の食糧・交通・通貨などの実情を調査した上で、行政権の回復について準備を行うとしたうえで、「この返還については今後の前例となるので島の利益になるように慎重に扱いたい」と南日本新聞の取材に対して応じている[96]。
連絡会議後の派遣団・調査団の動き
連絡会議終了後にトカラ列島の各島を巡回する予定としていたが、激しい時化に見舞われ、中之島に4日間の滞在を余儀なくされた[93]。この中之島滞在の4日間に十島村助役や村会議員から半農半漁で細々と生活していること、漁業資源は豊富であるものの肝心な漁船がないこと、ルース台風での被害、臥蛇島での塩害被害による飢餓、村内に医師がいない無医村であることなど、下七島の惨状を聞いた派遣団の一員である広瀬は、下七島について『いわば「南海の棄児」』であると大蔵財務協会出版の「明窓」に掲載された記事中で述べるほどであった[93]。
政府派遣団はその他の島々を巡回したが、天候不良によって上陸はかなわなかった[97]。臥蛇島では波打ち際に集まった島民に対して拡声器で食糧の有無を確認し、島の住民からは米やミソはないものの魚があるという「たくまざる無欲の返答」があったと吉田嗣延は回顧している[98]。政府派遣団を乗せた金十丸は宝島のみに寄港。9日には宝島を出発し、奄美大島へ至った[97]、その後派遣団一行は1月18日には東京に到着した[99]。一方、鹿児島県調査団を乗せた海上保安庁の巡視船「いき」は、宝島に立ち寄ったのちに、宝島から北上して臥蛇島などを調査し、1月11日に鹿児島港に帰還した[8]。

東京に戻った吉田嗣延は、調査復命書を内閣総理大臣兼外務大臣である吉田茂に提出した。その報告書の中に奄美大島から見える小宝島の小学校(当時は宝島小学校分校、現在の十島村立小宝島学園)の壁を白く塗り白亜の壁とすることで「奄美の人たちが、自分たちの祖国がその眼で眺められるように」したいと要望したところ、吉田茂はその内容に対して「この項目見て然るべし」と朱書きし、実際に小学校の壁が白塗りにされたと1981年(昭和56年)の講演の中で吉田嗣延が語った[90]。
次官会議による復帰に伴う措置の決定
現地調査の結果を受け、1952年(昭和27年)1月23日に行われた日本国政府の次官会議(事務次官等会議)において、復帰に伴う具体的な措置が正式に了解された。記録文書「鹿児島県大島郡十島村の区域のうち下七島の復帰に伴う次官会議了解案」では、返還日の解釈を巡る日米間の齟齬の解決や、2月10日までに完了すべき10項目の重点課題が示された[100]。
- 昭和二十六年十二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令の実施に関しては、その事務の所管別に従い、各省庁が必要な措置を採るものとし、措置完了後これを次官会議に報告すること。
- 日本国の行政権の下に復帰した日付に関して、連合国軍最高司令官覚書(12月5日)と琉球列島米国民政府指令(11月24日)との間に食い違いがあるので連合国軍最高司令官に決定を求める必要がある。
- 2月10日を目途として以下の措置を完了すること
- 従前より日本国に属していた上三島の区域と新たに日本国の行政権下に復帰した下七島の区域との分村に関する事項
- 村財政措置に関する事項
- 渡航の制限の撤廃に関する事項
- 通貨の切り替えに関する事項
- 税関に関する事項
- 食糧の配給に関する事項
- 郵便及び電気通信の事務の引継ぎに関する事項
- 警察事務の引継ぎに関する事項
- 教育事務の引継ぎに関する事項
- 生活保護事務に関する事項
—鹿児島県大島郡十島村の区域のうち下七島の復帰に伴う次官会議了解案
上三島と下七島の分村問題
1951年(昭和26年)7月ごろに日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の草案が発表されたことで、トカラ列島の返還が現実味を帯びると、上三島の区域においてこの際に分村するべきであるとの声が上がったことから、参考のために住民投票を行ったところ、賛成651票・反対24票となり、分村の賛成票が多数を占め、分村への支持が示された[17][37]。一方、下七島の十島村議会においても、復帰後の行政体制を見据えて分村を既に議決していた。南日本新聞が報じた内容によれば、1951年(昭和26年)12月12日に下七島の十島村は上三島の十島村に対してその旨を以下の内容で陳情を行なった[101]。
講和条約により七島の日本復帰がきまったことは、村民の渇望してやまなかった快報であり、非常な感激と新しい決意をもって迎えたのであるが、同時に行政の帰属がどうなるか村民は非常に心配している。これまでの七島に対する行政は、どちらかといえばママ子〔ママ〕扱いの色がこく地理的条件からみるとそれもある程度はムリのないことだが、復帰した場合ふたたびママ子〔ママ〕扱いの悲劇をくり返さないためには、まず分村することが第一だ
それはやく二百キロの海上に点在する十島を一人の村長、一つの議会で治めるにはあまりにもムリだと考えるからである。
—十島村議会[101]
1952年(昭和27年)1月30日に総理府自治庁行政課長は鹿児島県地方課長に対して十島村を三島村(上三島)と七島村(下七島)とするように政令で措置を行うことを通知するとともに、分村については県議会の意向を確認し、2月5日までに報告することを求めた[102]。
こうした地元の動きを受け、上三島と下七島の分村について意向を確認された鹿児島県議会は2月2日の総務委員会において「政令をもって措置することは自治制をうとんぜられた感もあるが」と通常の地方自治法に基づく措置ではなく政令による措置に対する不満を示しつつも、「時日の関係から分村を承認する」とした。名称については地元の要望により上三島を「
- 分村後の両村、特に十島村は財政事情極度に窮迫するにつき政府の責任をもって財政的援助を考慮せられたい
- 接収せられた金十丸の代船を政府に於て建造し交付せられたい
- 十島村の物資輸送、交通上必要な木造船(二級船)の建造に要する経費を政府予算に計上せられたい。最悪の場合に於ても本船建造に要する経費について本船の起債の枠の拡大を認められたい。
これを踏まえて同年2月4日に公布された「鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」(昭和27年政令第13号)の附則の規定により2月10日の施行日前に上三島に対する地方自治法の規定による分村(境界変更・村の名称変更)に関する処理を行うことができることとなり[105]、2月7日に上三島の「十島村」は、分村及び村の名称変更の条例を制定して鹿児島県知事に許可を申請。申請から2日後の2月9日に鹿児島県知事は条例を許可した[9]。
本土復帰と分村
本土復帰・地方自治法の下七島への適用

昭和26年政令第380号に基づき制定された「鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」(昭和27年政令第13号)が2月4日に官報に掲載・公布され、2月10日から施行されることになった[38][106]。
この政令の規定により「鹿児島県大島郡十島村の区域で北緯30度以南(口之島を含む)、北緯29度以北」の区域に対して、日本法である地方自治法(昭和22年法律第67号)が2月10日より適用され、これにより当該区域にある村(アメリカ合衆国統治下の十島村)はその区域をもって、地方自治法に基づく鹿児島県大島郡「十島村」(としまむら)となった[107][17]。
従前の十島村の条例および規則等は日本国の法令または鹿児島県の条例に反しないものに限り、そのまま十島村の条例および規則等となった[10]。これに従い十島村は日本法である地方自治法に基づき条例等の整備を実施した[108]。
なお、トカラ列島の本土復帰の日については諸説あり、鹿児島県のウェブサイトや主要な新聞報道においては、下七島への地方自治法の適用が行われ新たな「十島村」となった「2月10日」を本土復帰の日としているが[1][2]、十島村誌などでは関連政令が公布された「2月4日」を本土復帰の日としている[4]。
上三島の境界変更・名称変更

北緯30度以北にあり、日本の施政権下に属していた上三島(竹島、硫黄島、黒島)を行政区域とする「十島村」(じっとうそん)については、2月9日付の鹿児島県公報に以下の2件の鹿児島県告示が登載され、いずれも2月10日から効力を生ずるものとした。この告示による地方自治法の規定に基づく境界変更と村名変更によって、それまでの十島村(じっとうそん)は北緯30度以北に区域変更の上で、「三島村」(みしまむら)となった[38]。
- 大島郡十島村の境界(昭和27年鹿児島県告示第74号)
- 北緯30度以北(口之島を除く)に境界変更(地方自治法第7条第1項)[109]
- 大島郡十島村を三島村に変更する条例の許可(昭和27年鹿児島県告示第75号)
- 北緯30度以北(口之島を除く)の区域の鹿児島県大島郡十島村を「三島村」(みしまむら)に名称変更(地方自治法第3条第3項)[110]
2村の事実上の分割
結果として、十島村(初代)は通常の地方自治法の規定による市町村の廃置分合(解体分割)によらず、ポツダム命令である「鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」の規定による下七島への「十島村」(としまむら)の設置と、地方自治法第7条・第3条に基づく上三島側の「境界変更」及び「村名変更」という2つの異なる法的手続きの組み合わせにより、「十島村」と「三島村」に実質的に分割された。これは、地方自治法の運用上の特例的な措置であった[9]。
| 1946年(昭和21年)2月1日 | 1946年(昭和21年)2月2日 ~1952年(昭和27年)2月9日 |
1952年(昭和27年)2月10日 |
|---|---|---|
| (町村制) 十島村(じっとうそん) |
上三島 鹿児島県大島郡十島村(じっとうそん) 1947年(昭和22年)5月3日 (地方自治法施行) 鹿児島県大島郡十島村(じっとうそん) |
(境界変更・改称) 三島村(みしまむら) |
下七島 1946年(昭和21年)2月2日 奄美大島十島村(じっとうそん) |
(政令による地方自治法適用) 十島村(としまむら) |
復帰時のトカラ列島の状況
隔絶された生活と「情報の空白」
日本国政府派遣団の一員であった法制意見参事官の真田秀夫は、「旬刊時の法令解説」の特集記事『復帰した下七島現地報告―南国に再び仰ぐ喜びの日章旗―』において、十島村の生活水準について「遺憾ながら、甚だ低いといわなければならない」と断じた。交通の便が著しく悪く、外部と隔絶されているため、村内に新聞もラジオも存在しない「情報の空白状態」にあった[46]。
島民らは非常にのんびりとした生活を送っており、米軍統治下の下七島で民事訴訟が発生した例は一度もなく、検挙された刑事事件もわずか数件程度であった[111]。
臥蛇島の飢餓と「骸骨島」への危惧

1952年(昭和27年)2月に南日本新聞主催の「七島学術調査団」によるトカラ列島の学術調査が2週間にわたって行われた[112][113]。調査団としてトカラ列島の現地調査に参加した鹿児島県立図書館長であり小説家「椋鳩十」としても知られる久保田彦穂は、臥蛇島の惨状を次のように著し南日本新聞に寄稿した。
臥蛇島では、第二次世界大戦中の食糧難以降、毎年襲来する暴風雨による作物の全滅、断崖絶壁であるという地形的制約から船が2か月から3か月に1回程度しか寄港しないなど、10年近く慢性的な飢餓状態が続いていた。島の青年の発育状況は著しく悪く[114]、家庭菜園は荒れ果てて、生えていた「オニアザミ」の根と茎を食べて飢えをしのいでいる有様であった。久保田は早急に外部からの強力な救いの手が必要であるとして以下のように述べた[114]。
荒廃も、ここまで来ては、自力で立ち上がれ。などという言葉は、意味をなさないような気がする。早急に外部から強力なスクイの手を差しのべなければ近い将来にこの島は骸骨島と化してしまうような気がする。
—『鬼アザミ食う島の娘―「臥蛇」の飢えは10年越し』(久保田彦穂)[114]
「孤島苦」の解消に向けた課題
調査団の一員であった川村純二(鹿児島県教育委員会教育室長)は、「まず航路と人材を」と題した寄稿の中で、法整備的な問題や学校施設に関する問題など鹿児島県教育委員会として山積する学校教育に関する課題があるとしたうえで、それらをまず解決する方法として各島を結ぶ「確実な航路」の欠如を最大の問題であると挙げ、定期船の就航はもっとも重要であるとし、孤島苦を一日も早く解決させなければならないと述べた[115]。
しかし、本土復帰から1か月が経過してもなお各島を結ぶ航路は就航せず、郵政省が民間船の佐々木海運の大盛丸に依頼して鹿児島郵便局(現在の鹿児島中央郵便局)から郵便局のある口之島・中之島までの郵便物の輸送は行われていたが、その他の各島への輸送は全くできていない状態であった[116]。
国会でのトカラ列島に対する言及

トカラ列島の本土復帰後に開かれた第13回国会では、衆議院・参議院の各委員会においてトカラ列島の実情や住民の窮状や米軍から返還されずに接収されたままとなっている金十丸について関して言及されており、1952年(昭和27年)2月14日に開かれた参議院外務委員会において参議院議員團伊能は、トカラ列島の本土復帰とトカラ列島が抱えている外交問題について以下のように述べている[117]。
最近に南方水域三十度線に限定されておりました日本の水域が、二十九度線まで延びまして、そうして従来の鹿児島県十島村と申しておりました十の島からできております群島でありますが、その三つはすでに三十度線以北にありまして日本の領土になつておりましたが、新たに七島がこれに加わりまして、我が国に帰属いたしましたことは非常に御同慶に堪えない次第であります。(中略)具体的な外交問題となつておりまする問題もございます。その中には曾つてこちらで取扱いました請願にあつたと存じますが、金十丸という船が終戦当時鹿児島湾の中に碇泊しておりまして、これが琉球とこれらの島を縫つて参ります航路に使用されていた船でございます。この接収を早く返して頂いて、これらの島との連絡の船として使いたいという請願がございますが、勿論この辺は非常に台風の多い地域でございまして、普通の船舶では非常に危險でございまして、その金十丸はこの地方を航海するために船の幅を広く造つてございます。こういう船もできるだけ早く接収解除をして頂いて、日本に返して頂き、これらの諸島との連絡に当らせて頂くことを御斡旋願いたいと考える次第であります。

また、同年2月24日に開かれた衆議院大蔵委員会において衆議院議員浅香忠雄はルース台風などの被害を受けた島民の状態が悲惨な状況にあると新聞やラジオ等で報道されていると述べたうえで以下の質疑を行った[118]。
昨年末に今度日本政府に返還されました南西七島の問題であります、これにつきましては法務府、自治庁あるいは大蔵省も、現地視察に人を派遣されたということを聞いております。そのことについで過日主税局長に、向うへ行かれました模様を聞き知つておる範囲内において、お知らせ願いたいということを私申しましたところが、きわめて漠然たるものであつて、管財局方面の方々が行かれたかのようなお説でございましたが、何がために向うの方面のことを知りたいかという私の質問の趣意は、御承知の通り今度国民の熱願がいれられまして、南西七島は日本に復帰して非常に喜んでおります。しかしながら戦災とかルース台風などいろいろな被害があつて、島民の状態というものはきわめて悲惨であるということを、新聞、ラジオ等において知つているわけであります。(中略)この南西七島の状態をお聞きし、同時に今後どういう行政をもつて行かれるかということについて伺つたのでありますから、この点もし大蔵大臣のお考えがありましたならば、この際承つておきたいと思います。
上記の浅香の質疑に対して、大蔵大臣の池田勇人は以下のように回答した[118]。
鹿児島県の十島村の問題につきましてはお話のような点がございます。事務的には関税法の問題で調査に行つたとか聞いておりまするが、島民の方々の終戦後長い間日本から離れておつたあの気持をわれわれは十分くんで、できるだけの措置をいたすべきだと考えておるのであります。
行政機関の引継ぎ
警察
日本国へ復帰直前の十島村には、警察機関として名瀬地区警察署口之島巡査部長派出所、中之島巡査駐在所、宝島巡査駐在所が設置されていた[119]。
本土復帰に伴い、「鹿兒島県大島郡十島村に関する警察関係法令等の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」(昭和27年政令第17号)が施行された。これにより国家地方警察鹿児島県本部の管轄に移管され[119]、鹿児島県本部はトカラ列島の区域を鹿児島地区警察署の管轄に編入した[120]。トカラ列島で勤務していた警部補1名、巡査部長3名、巡査7名が日本国の国家地方警察に引き継がれ[121][120]、トカラ列島は北緯29度線に画定された新たな暫定国境線に接する区域であり、治安上重要な位置にあることから、中之島に警部補派出所、口之島と宝島に巡査部長派出所をそれぞれ設置した[120]。
同年12月の旬刊時の法令解説81号掲載の国家公務員の定数表においては、行政機関職員定員法(昭和24年法律第126号)で定める定員の枠外として、昭和27年政令第17号第3項の規定による「十島村警察」の定員が11名であると記載されている[122]。
郵便
郵便局は、琉球臨時中央政府郵政局の中之島郵便局、口之島郵便局、宝島郵便局が設置されていたが[107]、2月10日付を以て琉球臨時中央政府の郵便局としては「奄美大島十島村郵便局の閉鎖並びに当該事務の名瀬中央郵便局による承継」(琉球臨時中央政府告示第3号)により琉球臨時中央政府の管轄としては法的に廃止され、名瀬中央郵便局に事務を継承した[123]。
「鹿兒島県大島郡十島村に関する郵政事業及び電気通信業務の暫定措置に関する政令」(昭和26年政令第381号)によって日本国政府の郵政省と電気通信省に引き継がれることとなり、「郵便局設置」(昭和27年郵政省告示第37号)により2月11日付で中之島郵便局、口之島郵便局、宝島郵便局の3郵便局が日本国の管轄として法的に再設置され、中之島郵便局は集配郵便局となった[124]。11人の在籍している職員及び施設は日本国政府の郵政省がそのまま引き継ぐこととなった[125][126]。
通信
無線電信は、中之島(戦時中設置)、口之島(1949年設置[127])、宝島(1951年設置)に送受信所が設置されており、アメリカ軍統治下時代のトカラ列島にある無線送受信所は奄美大島の赤尾木(現在の龍郷町赤尾木)にある送受信所と通信していたが、日本国への復帰に伴い、「内国和文電報の受付事務等開始」(昭和27年電気通信省告示第125号)により日本国政府に引き継がれ、中之島郵便局、口之島郵便局、宝島郵便局に無線電信所が改めて設置されることとなり、鹿児島市吉野町の送信所から送信された無線を受信し、鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)の受信所へ送信されることとなった[128][129]。
日本国政府への引継ぎ時の各無線局の業務状況は日本電信電話公社(現在のNTT)九州電気通信局編纂の「九州の電信電話百年史」によれば、以下のとおりである[130]。
| 無線局 | 交信時間 | 発信(1日平均) | 着信(1日平均) |
|---|---|---|---|
| 中之島 | 9時~10時、14時~15時 | 14 | 12 |
| 口之島 | 10時~11時、15時~16時 | 16 | 14 |
| 宝島 | 11時~12時、16時~17時 | 2 | 3 |
なお、本土復帰時点で電話回線はトカラ列島には一切敷設されておらず、トカラ列島への電話回線の到来は中之島に農村集団自動電話(地域団体加入電話)が敷設された1960年(昭和35年)のことであり、全島への敷設が完了したのは本土復帰から14年後となる1966年(昭和41年)であった[131]。
教育
1952年(昭和27年)2月8日から2週間にわたり文部省・厚生省・鹿児島県庁・鹿児島県教育委員会事務局が事務引継ぎを行うため文部大臣からトカラ列島の教師及び学童への贈り物を携えトカラ列島を訪れた[132]。文部省からは教師用参考書や児童生徒用の学用品が寄贈された[133]。
当時のトカラ列島には人口3,000人の島々に小・中学校が18校あり、本校が小学校3校・中学校3校、分校が小学校6校・中学校6校が存在しており、1校当たりの学童数は34名である[134]。学校長が分校を訪れる機会も島間の移動が「丸木舟」に限られていたことから年に1回程度であった[134]。酷い場合は2年から3年にわたり本校と分校の間で連絡がつかない場合もあったという[135]。
また、トカラ列島の学校では保健衛生設備は皆無の状態で、学校給食も行われておらず、教科書も年度初めに注文したものが12月末か翌年1月に到着するのもザラであったという[136]。学校施設は中之島小学校の校舎が瓦葺きであるほかは、竹葺きでガラスなどもなく仮建築程度のものと劣悪な環境であった[136][133]。日本国への復帰時の学校の状況は「鹿児島県教育委員会月報」によれば、小・中学校が本校と分校を合わせて18校あり、小規模な分校の場合は、小学1年生から中学3年生までを複式学級で1人の教員が担当している場合もあったという[137]。
教員も日本の学校教育法の教育職員免許状に相当するものとして、二級免許状相当7名、仮免許相当6名、臨時免許状相当15名、無資格者2名によっていた[134][137]。本土復帰する時点でトカラ列島に所在する学校に在籍している31名の教員は全員が下七島への留任を希望し、鹿児島県に対して全員が履歴書を提出した[125]。31名全員が鹿児島県教育委員会に属する教職員となり[138]、教育職員免許状については、復帰に伴い施行された「鹿兒島県大島郡十島村に関する文部省関係法令の適用及びこれに伴う経過措置等に関する政令」(昭和27年政令第19号)第9項の規定に基づき教員免許についての特例が定められた[137]。教員の給与については、SCAPIN発令の1951年12月5日から2月10日までの分について奄美群島政府が立て替えて支払っていたため、鹿児島県が奄美群島政府に対してその間の給与を支払い、2月10日以降の給与は鹿児島県が直接支給することとなった[138]。
税務
トカラ列島が日本国への復帰して以降、政令第13号に基づき国の機関として鹿児島県知事が行っていた税務署の業務は、鹿児島県大島郡十島村に関する所得税法等の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令第9条の規定により、1952年(昭和27年)4月1日以降、鹿児島市にある鹿児島税務署が管轄することなった[139]。
なお、国税関係で所得税法等の直接税に関する法律と税理士法等の税法に関する法律が同年4月1日から適用されることとなり、酒税法等の間接税に関する法律が同年10月1日から適用されることとなった[140]。
戸籍・登記
1952年(昭和27年)2月13日に大島裁判所の職員2名が中之島へ派遣され、同地で鹿児島地方法務局の法務事務官に対して、それまで大島裁判所が管轄していた十島村の区域に関係する戸籍および登記の簿冊の引継ぎを行った[141][142]。
通貨の切り替え
法令の整備

アメリカ合衆国統治下のトカラ列島においてはB円と呼ばれる米軍の軍票が流通していたが、日本国への復帰に伴い日本円に切り替えることとなった。通貨・預金・債権に関する取扱いを定めた政令として、「鹿兒島県大島郡十島村に関する通貨、預金、債権等の管理の経過措置等に関する政令」(昭和27年政令第14号)が1952年(昭和27年)2月4日に公布された[12]。概要は以下のとおりである。
- 下七島にある者は、下七島において所持するB号軍票を昭和27年2月11日から2月18日までの間に下七島にある郵便官署(郵便局)に提出して本邦通貨(日本円)に交換すること
- 交換期間は昭和27年3月31日までの期間に限り大蔵省令で特例を定めることができるものとすること
- 郵政官署はB号軍票と本邦通貨との交換事務を取り扱うこと
- 交換事務のための現金の交付とその補填金は歳入歳出外として取り扱うこと
- 預金等で昭和21年2月1日以後に預け入れられたものは、昭和27年2月11日に日本円へ切り替えられる
- 下七島にある者の間のB号軍票による債権で、下七島で決済される債権は昭和27年2月11日から日本円で表示する
- 交換比率はB号円1円につき日本円3円とする
通貨の交換作業
大蔵省はこれを受けて南九州財務局の3名の係官(係長・課長・室長級)を現地に派遣し、実地において通貨交換の作業の指示を行うこととなった[12]。政令及び省令により定められたスケジュールに沿って、それまで流通していたB円軍票が日本円に交換されることとなり[143]、交換レートは同政令第6条の規定により1B円につき3日本円とされた[144]。
この時期のトカラ列島付近の海域は波浪が激しく、日本円を運搬する船が島になかなか接岸できず、定められた期間内に交換を行うことができない状況となった[145]。その結果、大蔵省は告示「鹿兒島県大島郡十島村における通貨の交換手続等に関する省令に基き、本邦通貨との交換期間について特例を認めるB号軍票及びその交換期間並びにその使用期間の延長を認める地域指定」(昭和27年大蔵省告示第371号)により当初の交換期間を3月10日までに延長した[146]。
大蔵省は、トカラ列島に流通するB円を300万B円程度と想定し、通貨の交換に用いる日本円を1,000万円準備したが、口之島で密貿易が行われていたこと、中之島に奄美大島や沖縄からB円が流入したこともあり、想定より金額が膨れ上がった一方で、地理的に奄美大島に近い宝島は想定を下回る金額に留まった[147]。
トカラ列島全体で、約426万円のB円を回収し、日本円はB円の3倍での交換となったため、約1278万日本円の支払いが行われた[148]。大蔵省南九州財務局が大蔵省理財局へ報告した各交換所・管轄島別の交換実績は以下のとおりである[148]。
| 交換所 | 島 | 軍票回収額 (B円) |
日本円支払額 (日本円) |
|---|---|---|---|
| 口之島交換所 | 口之島 | 1,598,435.70 | 4,795,307.10 |
| 臥蛇島 | 25,263.60 | 75,790.80 | |
| 計 | 1,623,699.30 | 5,871,097.90 | |
| 中之島交換所 | 中之島 | 1,568,073.40 | 4,707,220.20 |
| 平島 | 102,417.80 | 307,253.40 | |
| 悪石島 | 314,546.80 | 943,640.40 | |
| 諏訪之瀬島 | 100,992.20 | 302,976.60 | |
| 計 | 2,086,030.20 | 6,258,090.60 | |
| 宝島交換所 | 宝島 | 459,161.60 | 1,377,484.80 |
| 小宝島 | 92,252.90 | 276,758.70 | |
| 計 | 551,414.50 | 1,654,243.50 | |
| 総合計 | 4,261,144.00 | 12,783,432.00 | |
結果として総額1,280万余の日本円が支払われ、当初の準備金が不足し、2月24日に鹿児島から急遽日本円が追送される事態となった。最終的に3月10日までの交換期間の間に以下の金額の交換が行われた[149]。
| 区分 | 軍票の回収額 (B円) |
日本円支払額 (日本円) |
|---|---|---|
| 当初交換期間(2月11日~2月18日) | 4,262,145.20 | 12,786,435.60 |
| 特例延長期間(2月19日~3月10日) | 6,132.50 | 18,397.50 |
| 合計 | 4,268,277.70 | 12,804,833.10 |
翌年に日本国に復帰することとなる奄美群島の際にはトカラ列島において発生した交換金額の不足を考慮して、日本円への交換時の準備額を当初想定の8億円に対して、1億円増した9億円の金額を準備することとなった[150]。
国による人口調査
総理府は、本土復帰を果たしたトカラ列島の実態を把握するため「鹿児島県大島郡十島村人口調査規則」(昭和27年総理府令第11号)を1952年(昭和27年)4月21日に公布・施行し、同年5月1日午前0時時点の人口を調査することとなった[151]。この調査は統計法(昭和22年法律第18号)に基づく指定統計調査(指定第52号)として行われ、戦後処理の一環として実施されたこの地域人口調査は、昭和25年国勢調査の「一分肢」をなすものと位置づけられ、単に当該地域にとどまらない全国的な意義を持つ調査となった[152]。
内閣総理大臣の指揮監督のもと、鹿児島県知事が執行を指揮監督し、十島村長が調査の執行を管掌することとなった。また、指導員や調査員は鹿児島県知事が任命し、十島村長の指揮を受けるものとされ、調査票は調査員から十島村長、鹿児島県知事を通じて内閣総理大臣へ提出することとなった[153]。
人口調査は同規則の規定により、以下の条件に該当する者が対象となった[153]。
- トカラ列島に5月1日時点で常住する者
- トカラ列島に5月1日時点で一時的に滞在する者
- 船舶で日本国の港湾を5月1日以前に出港し、5月3日までにトカラ列島の港湾に到着した者
調査は離島が点在するが故に困難を極めた[154]。調査を行った当時、暫定国境線に接する宝島は密貿易の拠点となっており、総理府の中山照夫(のちに総理府統計局製表部長)は、密貿易の拠点となっていた東側海岸へ調査票の回収に赴いた鹿児島県から派遣された職員が船の出発時刻になっても戻らず、捜索が行われたが見つからなかったが、「夜が大分更けたころ」に朦朧とした様子で船に戻って来たと当時を回想している[154]。
人口調査の結果については同年5月17日の官報に総理府告示「鹿児島県大島郡十島村人口調査結果の件」(昭和27年総理府告示第143号)として掲載され、5月1日時点の人口は以下のとおりであった[155]。
- 総数:2,968人
- 男性:1,450人
- 女性:1,518人
金十丸乗っ取り事件と船の返還
金十丸乗っ取り事件
米軍の管理下に置かれていた「金十丸」は、1951年(昭和26年)の冬頃[注釈 5]に給水作業のために停泊していた名瀬港の岸壁に季節風の影響によって激突したことで船体を大きく損傷してしまい、しばらくの間名瀬港の出入口に係留されることになった[156]。奄美大島の住民からは同情の声もあり早期の修復と航路への復帰が期待されていたが、名瀬港には徐々に本土・沖縄方面との定期船が就航し始めており、出入口に放置されている金十丸はやがて定期船の寄港の障害になり始め、1952年(昭和27年)4月に龍郷湾(現在の龍郷町)に移された[157]。
トカラ列島が本土復帰した1952年(昭和27年)2月の時点で金十丸は米軍側から返還されておらず、米軍の管理下にある奄美海運株式会社が運航者となっていたものの、最終的には十島村に返還されることとなっていた[158]。しかし、船員の奄美海運に対する前借り金に関する債務不履行を理由に龍郷湾に係留されたまま抑留状態に置かれていた[158][159]。
広い海域に散らばる小島から構成される十島村と三島村にとって金十丸が返還されないことは一大事であり、本土復帰してもなお返還されない事態となっていることに対して、当時の三島村村長である安永幸内は実力行使に出ることとし、十島村村長の永田文彦に相談の上、安永の指揮下において奪還作戦を行うこととした[14]。
龍郷湾に係留されている金十丸の船長以下10名の船員と安永から奪還の指示を受け奄美大島に密航した三島丸(三島村運営)の船長の計11名により[14]、同年7月に金十丸は龍郷湾を出港、暫定国境線となっていた北緯29度線を越えてアメリカ側の管轄から脱出した[59][52]。
途中中之島のヤルセ海岸[160]・口永良部島[161]・山川港沖[14]に停泊しながら北上し、7月2日の夕方に鹿児島港沖に到着したものの、港には米国軍政府からの連絡を受けた警察官が岸壁に待機していたため、金十丸は沖に一旦停泊することにした。この事件を指揮した安永は停泊していた金十丸にボートで乗り込み「よくぞ、やりとげた。君たちの特攻精神に、心から感謝する」と述べて鹿児島の特産品であるさつま揚げを船員に食べさせた[162]。その後、金十丸は鹿児島港への入港を果たした[13]。
鹿児島港に入港した金十丸について南日本新聞は「大島からこっそり脱走 問題の『金十丸』鹿児島へ」との題名で報じており、この中で鹿児島港を管轄する鹿児島市警察は、琉球政府[注釈 6]から指名手配を受けている船員らを翌日逮捕する方針であると報じていた[13]。しかし翌日の南日本新聞には「国際裁判も辞さぬ―十島村、奄美側を非難」の見出しで、国家地方警察鹿児島県本部と鹿児島市警察は琉球政府と日本政府との間に犯罪人に関する引き渡しの国際的規約がなく、また裁判権の管轄も異なることから逮捕を見合わせることとしたと報じた[163]。また、十島村役場にもアメリカ軍から返還要求が来たものの「全く関知していない」と押し通した[58]。結果として、船員の逮捕は免れた[164]。
こうして奪還した金十丸は、予想以上に損傷状態が酷く長崎県香焼の川南造船所にドッグ入りのため回航されることとなった。米軍管理下において全くと言っていいほどに保守管理が行われておらず、船腹には牡蠣や海藻類がへばりついている状態で、さらにへこみや穴もあり、船体はリベットが緩み水漏れが発生している有様であった[165]。
返還後の金十丸

金十丸が最終的に米軍から正式に返還され、修理が完了した1952年(昭和27年)11月1日に、三島村と十島村による船舶交通事業一部事務組合である「十三島船舶交通事業一部事務組合」(通称:十三島船舶組合)[166]が設置され、鹿児島~十島~名瀬の航路に十島丸、鹿児島~名瀬~沖縄の航路に金十丸が就航した[167][168]。
しかし、2年後の1954年(昭和29年)3月31日をもって、一部事務組合を廃止することとなり、十島丸は十島村、金十丸は三島村がそれぞれ保有することとなったが、金十丸の船体については十島村の持分が一部残されていたものの、翌年の1955年(昭和30年)2月2日に三島村が約1200万円で買い取り三島村の完全所有となった[169]。金十丸は鹿児島~名瀬~沖縄の航路に引き続き就航していたが代船が建造されたため、1957年(昭和32年)2月に沖縄の国場組に売却され、宮崎県の日南地方で産出された木材を沖縄に輸送する貨物船として運用された[170]。
翌年の1958年(昭和33年)に国場組の船舶部門が分離されて設立された沖縄汽船所属となり、金十丸は那覇港ー宮古島・平良港ー石垣島・石垣港ー台湾・高雄港を結ぶ国際航路に就航した[171][172][170]。1963年(昭和38年)9月に石垣港から台湾の高雄港に向かっている途中に台湾・先島諸島を襲った昭和38年台風第14号(国際名:Gloria)から逃れるために寄港した西表島の船浮港で座礁し[173]、船員24名と乗客1名は沖縄汽船所属の福栄丸に救助された[174]。なお、その後の金十丸の消息は不明となっている[175]。
「運命共同体」であり続ける十島村と三島村
1954年(昭和29年)3月31日の一部事務組合の解消後も、両村は船舶の故障やドッグ入りの際にお互いの村の船を代用船として派遣しあうなど、緊密な協力関係を維持している[176]。近年では2023年(令和5年)に十島村の「フェリーとしま2」で火災が発生し長期欠航を余儀なくされた際、三島村の「みしま」がトカラ列島各島への代替輸送を担った例がある[177]。
かつて「十島村」(じっとうそん)として一つであり、北緯30度線によって分断された歴史を持つ両村は、行政組織が分かれた現在においても、「運命共同体」であり続けている[176]。
本土復帰後のトカラ列島と課題
生活環境の整備・10年ぶりの定期航路の就航
本土復帰後、十島村は学校施設や航路の整備を進め、学校施設については1953年(昭和28年)度の村の総歳出の約47パーセントを支出し、すべての小中学校の校舎の全面整備を実施した[178]。
また、航路は1955年(昭和30年)1月20日に10年ぶりとなる正式な定期航路として、十島丸による定期運航が開始された[179]。1955年(昭和30年)度の一部及び、1956年(昭和31年)度以降は国の航路補助金・県の指定航路補助金を受け運航することとなった[180]。
十島丸も進水から20年が経過し、老朽化が進んでいた。十島村単体での新船建造は資金面で困難であったが、十島村長の文園彰は「汽船も亦道路なり」を信念として、国や県に働きかけを行った[181]。この言葉は十島丸が1933年(昭和8年)に就航した際、中之島に設置された「十島丸就航記念碑」に刻まれたものであり[182]、この石碑は十島丸の建造に尽力した文園自身と、航路も道路であるとして道路建設資金から船の建造資金の特別融資を図った大蔵省預金部運用課長であった原邦道を顕彰するものであった[183][184]。この「汽船も亦道路なり」という精神は、本土復帰後も引き続き十島村行政を支える柱であったと『十島村誌』に記されている[185]。
鹿児島県の起債による転貸借と、郵政省の簡易保険の融資により調達した7000万円をかけて新船が建造されることとなり、1958年(昭和33年)4月10日に「第2十島丸」(253.37総トン、速力12ノット、旅客定員60名[186])として十島航路に就航した[185]。
航路の安定就航のために必要となる港湾の整備が進められ、中之島港が地方港湾として鹿児島県によって整備され、そのほかの島の港も漁港として県や村によって整備が進められた[187]。定期船の大型化・高速化・快適化や、港湾設備の整備に伴う全島接岸、道路整備、島内の電化、電話設置、水道の整備、テレビ視聴対応などの振興策が徐々に実現されていった[188]。
人口減少と臥蛇島の無人島化
人口は本土復帰前後が最も多く、1955年(昭和30年)時点の人口は2,658人であったが、35年後となる1990年(平成2年)には790人にまで減少し、1955年(昭和30年)の人口比で約70パーセントの減少となっている[189]。本土復帰後の人口減少の主な原因として本土への出稼ぎによる転居が挙げられており、特に密貿易の拠点となっていた口之島や中之島は人口の減少が著しい[190]。
離島振興法によりトカラ列島にある他の島で港の建設が進む一方で、臥蛇島は断崖絶壁という地形上の障壁から港の建設が困難であるとされ、また同時に担い手となる青壮年層の流出により、将来的に艀の運航を維持することが困難になると予想された。これらの要因が重なった結果、島民らは苦渋の選択として全員での集団離島を決断せざるを得なくなった[191]。1970年(昭和45年)7月28日に最後の島民である6世帯19名全員の集団離島が完了し[191]、これにより、古くから人の営みが続いてきた臥蛇島は無人島となった[192]。
トカラ列島の島民の現金収入は漁業と本土復帰後に行われた港湾をはじめとする公共事業による労働によっていたが、一定の整備が終わり公共事業が縮小すると災害復旧以外に公共事業による収入がなくなり、新たな雇用の場にも乏しかったことから、本土復帰50年となる2002年(平成14年)には人口はさらに減少し703人にまで落ち込んだ[62]。2010年(平成22年)には過去最低となる657人を記録するに至った。これに対し十島村は人口問題を自治体存続の最重要課題に位置付け、UターンやIターンによる移住政策を推進したことで転出者を転入者が上回るようになり、2015年(平成27年)には756人にまで増加し、前回の国勢調査に比べて15.1パーセントの増加がみられるなど人口問題も徐々に改善しつつある[193]。
村役場の鹿児島市への移転

本土復帰後も米軍統治下以前と同様に中之島に村役場を置いていたが、以下の理由から1956年(昭和31年)4月1日に十島村の区域外の鹿児島市泉町へ移転した[194][195]。
- 県庁所在地の鹿児島市への船での移動に時間がかかること
- 鹿児島市にある鹿児島出張所の規模が大きくなったこと
- 村役場の職員の大部分が鹿児島出張所勤務であり旅費や滞在費が村の総予算の1割を超すようになったこと
- 村議会が鹿児島出張所で開催されていたこと
村役場が村内に無いことで村の職員は大半が鹿児島市に居住しており村に税収が入らないことや[196][197]、村職員が村民の要望を直に聞く機会が逸失しているなどの問題点も指摘されている[198]。
なお、日本の自治体で、その区域以外に役場を設置しているのは、沖縄県竹富町(役場所在地:石垣市)と、前述の経緯により村役場を当初から鹿児島市に置く三島村の3町村のみとなっている[197]。
振興法の違いによる格差
トカラ列島の本土復帰の翌年、1953年(昭和28年)に奄美群島が本土復帰した際には、奄美群島振興開発特別措置法(昭和29年法律第189号、通称:奄振法)が制定され、国による大規模な振興策が取られた。しかし、1年早く復帰した十島村はその対象とならなかった[16]。十島村に対する特別措置法が制定されなかった理由の一つとして、奄美群島選挙区選出の保岡武久のような有力な政治家が十島村にいなかったことを挙げている[16]。
また、奄振法成立後の1961年(昭和36年)2月21日に開かれた第38回国会衆議院地方行政委員会において、川村継義は「奄美群島と同じく占領下にあった十島村をなぜ奄振法の対象にしないのか」と質問し、自治省は以下のとおり回答した[199]。
十島村の問題は、請願があったことも、私たちの方に要望がございますことも承知いたしております。ただ御指摘になりましたような均衡論、なかんずく奄美群島と地理的にも非常に近接をしておる、立地条件についてもきわめて相似ておるというような点から見まして、その点十島村に対する施策というものが奄美に比べて非常に非薄ではないかということについては、なるほど問題はあろうかというふうには思います。ただ奄美群島復興の特別措置が決定をせられました経緯その他から考えまして、今ここに奄美群島復興の特別措置の対象として十島村を持ってくるということにつきましては、いろいろ差しさわりもあり、問題もあり、困難な事柄ではないか、かように考えております。お話にもありましたように離島振興法の適用は受けておるわけでありまして、それらの運用によって要望を満たすような方向でやっていくということが、私は当面許されておる措置ではないか、かように考えておるのであります。しかし全体といたしまして奄美との均衡論等を取り上げて参りまする場合に、将来の十島村というものをどういうふうに取り扱っていくかということにつきましては、関係各省ともさらに検討すべき余地は十分残っておるのではないかというふうには考えております。ただ、それらの場合に、しからば他の離島、十島村以外にもいろいろございますけれども、それらの離島についてもやはりその処遇ないし国家施策においてどういうふうなことをやっていかなければならぬかというふうな必要の度合いというものにつきましては、種々検討を要する面もございますので、これらの点につきましては今後研究問題として考えていくべき筋合いのものではなかろうか、かように現在の段階では考えております。
—自治省行政局長 藤井貞夫(第38回国会 衆議院 地方行政委員会 第5号)[199]
残る格差の記憶

本土復帰70周年となる2022年(令和4年)2月10日に挙行された本土復帰70周年式典において、鹿児島市にある十島村役場に建立された「十島村村制施行・十島村日本復帰七十周年記念の碑」が除幕され、関係者はこれまでの歩みを振り返り「先人の足跡をしっかりと踏みしめ、新たな一歩を踏み出す」と誓うとともに[200]、奄美群島に施行された奄美群島振興開発特別措置法、小笠原諸島に施行された小笠原諸島振興開発特別措置法、沖縄県に施行された沖縄振興特別措置法のような、復帰後の振興をはかる特別措置法が十島村のみ制定されなかったことを「大きな格差」であると指摘した[15]。
十島村に対して特別措置法による復興策が取られなかったことについて十島村村長の肥後正司は、日本放送協会(NHK)の取材に対して以下のように述べている[201][16]。
奄美群島に足を運ぶ中で、私たちの地域の整備が立ち遅れているというのは、目に見える形で感じてきました。占領下に置かれた環境というのは同じであったにもかかわらず、十島村は特別措置法が受けられなかった。今でもなぜなのかという気持ちがあります
—十島村村長 肥後正司[16]
また、同年4月28日に沖縄返還から50周年を迎えたことを記念して、アメリカ合衆国の統治下に置かれ、本土復帰を果たしたトカラ列島・奄美群島・小笠原諸島・沖縄県の4地域での「全国復帰っ子オンライン交流会」が開かれた。4地域の復帰後に歩んだ歴史や経済・生活状況について情報交換を行い、オンライン交流会に参加したトカラ列島の住民は「奄美や小笠原、沖縄に適用された振興開発特別措置法の対象にならなかった。」として奄美群島と一体となった振興策を提言する必要があると述べた[202][203]。翌年2023年(令和5年)12月2日には奄美群島本土復帰70周年を記念して「奄美復帰70周年記念全国復帰っ子オンライン交流会」が開催され、参加した十島村役場の職員は「トカラの地域を返還することで、奄美や沖縄の復帰運動の動きを和らげることが目的の一つにあったのでは」と述べた[204]。
島嶼学を専門とする長嶋俊介は、トカラ列島に適用されている離島振興法(昭和28年法律第72号)と、かつて同一区域としてアメリカ軍の統治下にあった奄美群島に適用される奄美群島振興開発特別措置法との間の壁が、近接している奄美とトカラ列島との間の一体化を阻害していると指摘したうえで、本土(行政)から見た離島に対する考え方について以下のように述べている[39]。
縦割り行政の問題のみならず、そもそも島嶼をめぐるきめ細かい配慮を本土が示すことは希である
—「島嶼と境界ー日本国境形成史試論ー」(長嶋俊介)
主要年表
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1951年(昭和26年)
- 7月 - AP通信が「対日講和条約草案」を報じる。北緯29度以北のトカラ列島の本土復帰が事実上確実なものとなる[3]。
- 11月24日 - 奄美群島政府を管轄する琉球列島米国民政府は行政命令「琉球諸島合衆国民政府の行政管轄権の北部境界線変更」を施行し、北緯29度以北を連合国軍最高司令官総司令部の管轄に変更[5]。
- 12月5日 - GHQは日本国政府に対して「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN-677)を改正するSCAPIN-677/1を発令。これによりトカラ列島の本土復帰が確定する[64][3][65][6]。
- 12月6日
- 12月7日
- 12月10日
- 12月12日 - 下七島の十島村は上三島の十島村に対して十島村の分村を陳情[101]。
- 12月13日 - GHQと日本国政府との間で行われた渡航に関する協議内容を日本経済新聞が報じる[69]。
- 12月14日 - 鹿児島県議会本会議において鹿児島県知事重成格が本土復帰に対する祝意と対応方針について述べる[73]。
- 12月15日 - 鹿児島県議会本会議において鹿児島県議会議員山中貞則が「奄美大島十島村に属する七島の本県行政復帰関係問題」の質疑を行う[74]。
- 12月18日 - 北緯30度線の渡航について国家地方警察の通達が発令され、北緯30度以北の住民の渡航許可が不要となった(トカラ列島住民は従来通りSCAPの承認が必要)[72]。
- 12月19日 - 奄美大島の名瀬市で「十島村下七島復帰」を祝す提灯行列が行われる[82]。
- 12月21日 - 日本国政府はポツダム命令として政令『昭和二十六年十二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令』を官報に公布・即日施行し、5日に遡って適用[83][84]。
- 12月24日~12月28日 - 日本国政府派遣団が那覇においてトカラ列島の本土復帰に伴う事務的な協議を行う[78]。
- 12月26日 奄美大島警察部長が国家地方警察鹿児島県本部に対して翌年1月1日付で北緯29度線の渡航制限を行う旨を通告[75]。
- 1952年(昭和27年)
- 1月1日
- 1月2日 - 日本国政府派遣団は奄美大島の名瀬に渡り現地軍政府・奄美群島政府と打ち合わせを行う[78]。
- 1月5日 - 中之島の中之島小学校において日本国政府派遣団・鹿児島県調査団・琉球諸島米国民政府・奄美群島政府・十島村(下七島)が参加し「連絡会議」が行われる[8]。
- 1月11日 - 鹿児島県調査団が鹿児島港に到着[8]
- 1月18日 - 日本国政府派遣団が東京に到着[99]
- 1月23日 - 日本国政府の事務次官等会議において、トカラ列島の本土復帰に伴う具体的な措置が正式に了解される[100]。
- 1月30日 - 総理府自治庁は鹿児島県に対して十島村(じっとうそん)を上三島を「三島村」、下七島を「七島村」とするように政令で措置することを通知し、鹿児島県議会への意向確認を行い報告を求める[102]。
- 2月 - 南日本新聞主催「七島学術調査団」によるトカラ列島の調査が2週間にわたり行われる[112]。
- 2月1日 - 日本国政府が北緯30度の渡航制限を法的に解除[95]。
- 2月2日 - 鹿児島県議会総務委員会が分村を承認。地元の要望により上三島を「
三島村 」、下七島を「十島村 」とすることとした[103]。 - 2月4日 - 日本国政府が「鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」を官報に公布[105]。
- 2月7日 - 十島村(上三島)が分村及び村の名称変更の条例を制定し、鹿児島県知事に対して許可を申請[9]。
- 2月8日 - 教育関連の事務引継のため文部省・厚生省・鹿児島県がトカラ列島に到着し2週間ほど滞在[132]。
- 2月9日 - 鹿児島県知事が十島村(上三島)の分村及び村の名称変更の条例を許可[9]。同日告示を県公報に公示[109][110]。
- 2月10日
- 2月11日 - 以下の政令が施行され、各行政官署はアメリカ軍統治下の組織から日本国政府の組織へ移管される。
- 警察機関(名瀬地区警察署 → 国家地方警察鹿児島県本部)
- 政令「鹿兒島県大島郡十島村に関する警察関係法令等の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」
- 郵便局・無線電信(琉球臨時中央政府郵政局 → 日本国政府郵政省・電気通信省)
- 政令「鹿兒島県大島郡十島村に関する郵政事業及び電気通信業務の暫定措置に関する政令」
- 教育機関(奄美群島政府 → 鹿児島県教育委員会)
- 政令「鹿兒島県大島郡十島村に関する文部省関係法令の適用及びこれに伴う経過措置等に関する政令」
- 警察機関(名瀬地区警察署 → 国家地方警察鹿児島県本部)
- 2月11日~3月10日 - B円軍票から日本円の切り替えが口之島・中之島・宝島の各郵便局において行われる[143]。
- 2月13日 - 中之島において大島裁判所から鹿児島地方法務局へ戸籍・登記書類の引継ぎを行う[141]。
- 4月1日 - 税務署の業務を鹿児島県知事から鹿児島税務署へ移管[139]。直接税及び税法に関する法律が適用される[140]。
- 4月28日
- 5月1日 - 国による人口調査が実施される。調査の結果総数2,968人であった[155]。
- 7月1日 - 金十丸乗っ取り事件が発生。翌日2日に金十丸が鹿児島港に入港する[13]。
- 10月1日 - 酒税法などの間接税に関する法律が適用される[140]。
- 10月25日
- 1962年(昭和37年)
- 1973年(昭和48年)
- 2001年(平成13年)
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 2022年(令和4年)
- 2023年(令和5年)
脚注
注釈
- ↑ ただし、十島村誌など十島村の資料においては本土復帰の日付を2月4日としている資料もあるが[4]、2022年の本土復帰70周年の十島村主催の記念式典は2月10日に行われている。
- ↑ トカラ列島の他にも伊豆諸島(1946年復帰)も本土復帰した地域であり、振興特別措置法が制定されていないが、伊豆諸島はアメリカ合衆国の統治下にあった期間が数か月程度であったためこの対象から除外して考えていると考えられる。
- ↑ この場合の七島は、口之島・中之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・宝島・臥蛇島の7島を指しており、小宝島は宝島のうちとして数えられる[20]
- ↑ 北緯30度線が島の陸上を通る口之島全体をアメリカ合衆国統治下に含めるために「口之島を含む」という表現がなされる。SCAPIN-677や本政令の委任命令及びその他法令でも同様の表記がされる。
- ↑ 名瀬市誌中巻に1952年(昭和27年)2月3日金十丸流船との記述あり
- ↑ トカラ列島の本土復帰後、1952年4月1日に琉球中央臨時政府が発展的解消をして発足
- ↑ 実際の50周年は翌年の2002年である
- ↑ 実際の60周年は翌年の2012年である
出典
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参考文献
新聞記事・ニュース
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- 「喜びにわく七島を解剖する "夢の島"にも民主の波 戦争=敗戦=にもみくちゃ」『南日本新聞』南日本新聞、1952年1月1日、朝刊、10面。
- 「七島の受入態勢に結論 食糧、二月から配給 駐在警官も十二名に増員」『南日本新聞』南日本新聞、1952年1月8日、朝刊。
- 「ふるさとは外国 29度線に泣く 七島移住の大島島民」『南日本新聞』南日本新聞、1952年1月9日、朝刊。
- 「分村方針は変わらない 校舎復旧費にさし当り千五百万円」『南日本新聞』南日本新聞、1952年1月10日、朝刊。
- 「日の丸、君ケ代に感激の涙 七島視察の縣調査團帰る」『南日本新聞』南日本新聞、1952年1月12日、朝刊。
- 「二月一日から30度線を開放 七日に事務引きつぎ 十島を三島村と七島村に」『南日本新聞』南日本新聞、1952年2月1日、朝刊、2面。
- 「十島村の分村を承認 鹿縣議会"三島村" "十島村"と呼称」『南日本新聞』南日本新聞、1952年2月3日、朝刊。
- 「ヴェールをぬいだ七島の素顔 学術調査団船上座談会」『南日本新聞』南日本新聞、1952年2月23日、朝刊、2面。
- 「貴重な資料土産に 学術調査団元気で帰る」『南日本新聞』南日本新聞、1952年2月23日、朝刊、3面。
- 久保田彦穂「七島学術調査団研究報告 文化 鬼アザミ食う島の娘 「臥蛇」の飢えは10年越し」『南日本新聞』南日本新聞、1952年2月26日、朝刊、2面。
- 川村純二「七島学術調査団研究報告 教育 まず航路と人材を 六坪の小屋で小、中学生50名が勉強」『南日本新聞』南日本新聞、1952年2月28日、朝刊、3面。
- 「金十丸の返還が先決 七島への郵便物ストップ状態」『南日本新聞』南日本新聞、1952年3月16日、朝刊、3面。
- 「大島からこっそり脱走 問題の『金十丸』脱走鹿児島へ」『南日本新聞』南日本新聞、1952年7月3日、朝刊、3面。
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関連項目
外部リンク
